主页 ACORN vol.8 停車場幽霊奇譚

ACORN vol.8 停車場幽霊奇譚

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年:
2018
语言:
japanese
ISBN:
B07926HFQK
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ACORN vol.7 厄介な連中17: 嘘をつくなら墓場まで

年:
2018
语言:
japanese
文件:
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ADHDが1日部屋にこもって書いた本: 頭の中を駆け巡る思考 ADHD脳

年:
2019
语言:
japanese
文件:
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登場人物

    序章(プロローグ)

    1

    2

    3

    4

    5

    6

    7

   終章(エピローグ)

<付録> 大正時代の用語デタラメ解説

あとがき





停 てい 車 しや 場 ば 幽 ゆう 霊 れい 奇 き 譚 たん





柏枝真郷





登場人物




  草 くさ 薙 なぎ 正 しよう 造 ぞう ……子爵家当主、貿易商



  各 かが 務 み 賢 けん 治 じ ……謎の青年



  瀬 せ ノ 尾 お 孝 たかし ……脚本家志望の学生



  安 やす 原 はら 千 ち 代 よ ……草薙家の女中頭

  大 おお 山 やま …………草薙家の料理人

  山 やま 下 した …………軍医

  栗 くり 田 た …………秘書



  草 くさ 薙 なぎ 桜 さくら 子 こ ……正造の妻(故人)

  大 おお 磯 いそ …………桜子の父、貿易商





     序章 プロローグ




 大正の世になって七年目、欧州大戦の特需景気や米騒動で日本中が慌ただしかったが、東京市本ほん 郷ごう 区く 駒こま 込ごめ にある草くさ 薙なぎ 子爵邸は、秋に入ったとたん、暗い死の影が忍び込んできた。

「たかが風邪だと思い込んでいましたのに」

 女中頭の千ち 代よ が後に何度も後悔の言葉を口にしたが、すべて後の祭りだった。若き当主である草薙正しよう 造ぞう の妻、桜さくら 子こ が、「少し寒気がしますので」と夕方に寝室に下がったときに、察するべきだったかもしれない。まだ二十歳そこそこの新妻は、体つきは細いながらもいつも元気溌剌で、楽しそうに英語の唄を口ずさみながら女中たちと一緒になって屋敷の隅から隅までぴかぴかに磨き上げるのが日課であり、寒気がする程度で早寝するはずはなかったのだ。

「桜子が伏せっている?」

 午後七時頃に帰宅した正造は、「おかしい」と感じた。すぐさま寝室へ走り、毛布を頭からかぶった桜子が、激しく咳き込みながら震えているのを見るやいなや、友人であり経験豊富な軍医でもある山やま 下した に電話をかけ、雇いの車夫に俥くるま を引かせて弥やよ 生い 町ちよう まで迎えに走らせた。

 幸いにして山下は在宅中だったので、小半時も待たずに駆けつけてくれた。しかし、寝室で桜子の容体を診た山下は、重い溜息をつきながら鞄を開け、ゴム紐がついた白い布を取り出して鼻と口を覆うようにしてから耳に紐をかけた。

「西班牙スペイン 感冒かと思われます。流行性感冒の一種です」

 布地を通して聞こえる山下の声は、くぐもっていたが重かった。正造も三十歳の若さだったが、欧州や亜ア 米メ 利リ 加カ との貿易で先祖の財を増やし、外国人の知ち 己き も多かったから、世界中で猛威を振るっている西班牙感冒についてはよく耳にしていた。

 西班牙の国王や首相まで感染したことから、そう呼ばれてはいるが、発生源は西班牙ではなく亜米利加であることも。猛威は収束の気配もなく、むしろ病原菌が凶暴化の一途を辿っていることも。そして、今年に入ってから日本でも感染による死者が爆発的に増えていることも

 しかし、正造はたった今、初めて耳にした病名にも思えた。頭が理解するのを拒否したのだ。

「治療法は?」

 思わず語気が荒くなった。「ないとは言わせないぞ」と喉元まで込み上げた言葉を呑み込み、答えを待つ。

「……合併症さえ抑えることができれば……」

 山下の答えは冷静で、わずかの希望の光が見えた   いや、正造がそう思い込みたがっただけかもしれない。「まずは、ご家族や使用人が感染しないよう注意してください。亜米利加や欧州で感染が広がった原因の一つは、医者や看護婦も感染してしまったからなんですよ。病院そのものが機能不全に陥り、患者の治療ができなくなってしまった……。大戦での負傷者も、治るはずの外傷だったのに、同じ病院に入院していたために西班牙感冒で亡くなった者も大勢いると聞きます」

 説明しながら山下が鞄から白い布をもう一枚取り出して、正造に差し出した。

「マスクか」

「あいにく今は一枚しかないのですが、仕組みは簡単ですので、女中さんに縫ってもらえば……」

「使用人全員の分を用意してもらおう。洗い替えもあったほうが?」

「もちろんです。できれば熱湯で洗い、天日に干して日光消毒してください。それと石鹸での手洗い、うがいを徹底して」

「わかった。他には? 肝心な桜子の治療は? 薬は?」

「看護婦の手配は私のほうでしますが、体を温めて安静にするしかありません。水分と栄養の補給も必要です。たしか以前、こちらの晩餐でいただいた野菜スープ   鶏の味もしましたね。あのような滋養が溶け込んだ飲み物が良いかと。少し冷まして飲みやすくしてから奥様に; 」

「あのスープか。わかった。料理人の大山の得意料理だ。さっそく作らせよう」

「奥様にもマスクを着用してもらったほうがいいでしょう。喉の乾燥を防ぐこともできます。お湯を張った桶を枕元に置くのも効果的です。空気に湿り気があったほうがいいのです。この点は看護婦にも言いつけておきますが」

 淀みなく説明を続ける山下の様子は、軍医としての経験ではなく、すでに西班牙感冒の患者を何人か診た経験からのものだったのかもしれない。山下はすぐに電話で看護婦を手配し、正造がまた車夫を迎えに走らせた。

 看護婦は徹夜での看病に一人、朝に交替して夕方までの看病に一人、桜子のそばにいてもらうことになった。千代を始め女中たちが、木綿の晒し生地でマスクを一時間で五十枚も縫い上げ、使用人全員   車夫や馬丁までもがマスクをして、桜子の回復に少しでも役立とうと奔走した。

 園丁は氷ひ 室むろ に残っていた氷を大量に切り出して運んできたし、大山は台所で鶏肉と野菜を煮る大鍋の前から動こうとしなかった。

 それほど桜子が使用人たちから慕われていたのだと、正造は今更ながら気がついた。結婚して一年を過ぎたばかりだが、生まれたときからこの屋敷にいるかに思えるほど自然に溶け込んでいる。

 正造の亡き母が、掃除はおろか、茶を淹れる湯さえ沸かしたことがないほど家事はすべて女中たちに任せ、優雅な和歌や西洋刺繍といった趣味三昧で暮らしていたことを思い出せば、桜子は子爵夫人として「当世風」だったのだろう。もともと正造と出会ったのも、代々木の教練場で乗馬を習っていたのが縁だ。横浜で貿易商を営む豪商、大おお 磯いそ と急ぎの商談があり、休暇中なのを承知で会いに行き、大磯の一人娘である桜子に一目惚れしたのだった。

 ちょうど桜の季節だった。吹雪のように桜が散る中で長い髪をなびかせて白馬を駆り、桜色に頬を染めた乙女は、神々しいまでに美しかった。躍動する春の女神だった。十七歳で、高等女学校を卒業したのち、麹こうじ 町まち 区にある女子英語塾で英語を学びながら、いつか父の商談に通訳として同行できる日を夢見ているのだと自己紹介する声は希望に満ちていて明るく、なおかつ柔らかだった。甲高い女性の声を耳障りに感じることが多い正造にとって、まさに理想の女性だったのだ。

 幸いにして桜子にも正造にも恋人や許婚いいなずけ はいなかった。どちらも周囲が「そろそろ身を固めさせないと」と気を揉んでいたのは同じだったから、正造が三日後に「結婚を前提で」の交際を申し込むと、大磯は即答で承諾してくれた。肝心の桜子の気持ちが心配だったが、大磯は、

「娘は先日から、君のことばかり訊きたがっているよ。あのとき白馬に乗っていたのは娘だったが、娘にとっては君こそが、白馬に乗った王子プリンス・チヤーミング に見えたようだ」と微笑んだのだった。

 たしかに正造は父譲りで背が高く、偉い 丈じよう 夫ふ だとかハンサムだとかいった世辞を含んだ形容は聞き慣れていたが、大磯の言葉に世辞や嘘は感じられなかった。さらに桜子は、正造が子爵であることに身分違いのような不安まで抱いていたらしい。草薙の先祖は公家でも大名でもなく、ただの藩士で、明治維新の動乱期に棚ぼた式の勲功を挙げて叙勲されただけの俄にわか 華族だと正造が説明すると、桜子は安堵し、おかしそうに笑ったのだった。

「私、おっちょこちょいだって、よく母に注意されるのですけど……今度も、おっちょこちょいでしたのね」

 失敗ですら屈託なく笑い飛ばしてしまう天性の明朗さは、半年の交際を経て嫁いできたのちも変わらなかった。華やかな園遊会や鹿鳴館でも「大陽のような奥方」だと賛賞されたし、婦人雑誌から「写真を掲載させていただきたい」と依頼された回数も片手では数え切れないほどだった。桜子は大半の依頼を固辞したが、縁故の関係で断れない依頼だけは引き受け、「少しはあなたのお役に立てるかしら」と正造の貿易会社で輸入した鞄や装飾品をさりげなく身につけて撮影に臨んだ   おかげで雑誌の発売後には高価な輸入品が飛ぶように売れたものだ。

 さらに、正造の母が五年前に他界したのち女中頭として家事を取り仕切ってきた千代をして、

「若奥様がいらっしゃるだけで、お天道様が雲に隠れていても充分に明るうございます」と言わしめるほどだった。

 それほど明るかった桜子の笑みも、今は暗い寝室とマスクに隠されている。口から洩れるのは笑い声ではなく、辛そうな咳だ。代われるものなら、喜んで身代わりになる。桜子を救うためたら、全財産を投げ出してもいい。

 正造も使用人たちも懸命に看病しようとした。しかし、そのわずか二日後の夜

「……ご臨終です」

 山下の声が、終わりを告げた。

 それは正造にとって、この世の終わりと同じだった。





     1





 汐しお 留どめ 停てい 車しや 場ば に近いカフェー「夕ゆう 汐しお 」に草薙正造が訪れたのは、ほぼ一年ぶりだった。心なしか寂れたように感じるのは、客層に華やかさが薄れ、埃まみれの鳥打ち帽ハンチング をかぶったままの、むさくるしい男たちが眼につくからだろうか。珈琲の香りより酒の匂いのほうが強く、女給の人数も減っている。

「いらっしゃい」

 ぞんざいな挨拶で二人掛け用のテーブル席に案内されたが、白いテーブルクロスにも染みができている。水の入ったグラスを放り投げるように置き、革表紙のメニューを置いて女給が立ち去ってから、正造は軽く溜息をついてメニューを広げた。

 このメニューだけは一年前と同じだ。ただし、かなり乱雑に扱われたらしく、革表紙は縁が擦り切れ、紙にも染みがついている。



  カチューシャかわいや わかれのつらさ

  せめて淡雪 とけぬ間と

  神に願いを かけましょうか



 聞こえてきた女の歌声に、正造はメニューから顔を上げた。蓄音機は以前からあったが、店主の好みはクラシックかオペラだったはずなのに、珍しいこともあるものだ。それとも好みが変わったのだろうか?

「……死んじまったんだよなあ。松まつ 井い 須す 磨ま 子こ 」

 近くのテーブル席で誰かがつぶやいた。

「ぴったりの季節なのが、せつないねえ」

 相槌を打った男の手が、曇った窓硝ガラ 子ス を拭った。路上にうっすらと積もった雪を時代遅れの瓦ガ 斯ス 灯が照らしている。誰かが踏んだ靴跡の形で解けているから、これ以上は積もらないだろう。

「まったくだ。『復活唱歌』なのにな。復活せずに島しま 村むら 抱ほう 月げつ の後を追ってあの世に逝っちまった」

「まだ三十三歳だっけ? 可惜あたら 若い命を……まったく惜しいよなあ……」

「惜しいかなあ?」

 ふいに声が割り込んだ。「整形美女の成れの果て。鼻を高くするために埋めた蝋が解けて、鼻筋が崩れかけてたって話だよ。美貌の記憶だけを残して消えられたのだから、むしろ幸せだったのでは?」

 辛辣な物言いだが、声に棘はない。むしろ柔らかだ。正造が声の方角を見ると、カウンター席で頬杖をついた青年と眼が合った。

 優美、としか表現しようのない顔立ちだった。すっきりと高い鼻から弓なりの眉にかけてのラインは、西洋画の美女   そう、ボッティチェッリの描いた「若い女性の肖像」を彷彿とさせる優雅さだ。眉の下でアーモンド型の上瞼と眼を長い睫毛が分け、白い額にさらりと掛かった鳶とび 色に艶めく髪が物憂げアンニユイ な雰囲気を醸し出している。

 男装の麗人と間違えられそうな美貌だが、きちんとネクタイを結んだシャツの上には喉仏が突き出ているし、上等な仕立てのスーツに包まれた肩の広さや四肢の長さは男のものだ。

「君、口を慎むべきだな」

 青年の前に、紺こん 絣がすり の着物に袴を穿いた書生風の男が立ちふさがった。「死者に鞭打つつもりか?」

「そんなつもりはないよ。ただ彼女は死にたくて死んだのだし、本懐を遂げたのだから、幸福だったのだと考えることもできる、と言いたかっただけだよ」

「それなら整形云々を持ち出す必要はないだろう?」

「彼女が『死にたい』と願う動機の一つとして挙げたまでだよ。美貌が崩れる恐怖や精神的な苦痛だけでなく、炎症を起こして痛みから寝込むこともあったそうだから」

「……ずいぶん詳しいな。君も芸術座の役者だったのかい?」

「役者になったことはないよ。芸術座の関係者に知り合いがいるだけで」

「そうか……役者にでもなれそうな容姿だから……。いや、失敬。悪い意味ではないんだ。僕はまだ学生だが、劇作家を志していてね。芸術座の解散は痛恨の極みだったから」

 書生は率直かつ素直な性格らしく、あっさりと謝った。「この夏に蔵くら 前まえ (東京高等工業学校の異名)の学生たちが映画の雑誌を創刊すると聞くし、舞台よりも映画の時代だという意見もあるが、僕の持論では、映画は『継つ ぎ接は ぎされた芝居』にすぎない。継ぎ接ぎができる、すなわち、誤魔化しが利くということだ。舞台は観客の眼の前で演じられるから継ぎ接ぎできない。やり直しも誤魔化しも利かない芸術だ」

 痩せた腕を振り回し、熱っぽく語る書生は生き生きとして見えた。「活動写真」ではなく「映画」という言葉遣いも、劇作家志望らしさが感じられる。

「継ぎ接ぎされた芝居……」

 美貌の青年も真面目に議論に参加する気になったらしい。肘杖を外してスツールに座り直してから、ふいに正造に視線を向けた。「あなたはどうお考えになります?」

「……私、か?」

「そう、あなたです。先ほどから興味深げに耳を傾けていらっしゃったようですから」

「……そうだな」

 正造はグラスの水を一口飲みながら考えをまとめた。「純映画劇運動は知っているかい?」

「もちろんです」

 先に答えたのは書生だった。ぼさぼさの髪の下、黒縁眼鏡の奥では利発そうな眼が輝いている。「映画と演劇はまったく異なる芸術を目指すべきだ、という理想論ですね。帰かえり 山やま 教のり 正まさ の理論書『活動写真劇の創作と撮影法』も読みました。現時点では理想論に過ぎませんが、いつか彼の理論に追いつく時代が来ると思います。でも、それは映画の未来ですから。僕はあくまでも『舞台での演劇』に固執したいんです」

「舞台は『やり直しも誤魔化しも利かない芸術』だから?」

「そうです。だから同じ劇団が同じ劇を演じても、毎回どこか違う。たとえば、演じる役者たちの調子にしても、全員がいつも万全というわけにはいかないでしょう? ある役者は不調でも、ある役者にとっては会心の出来といえる回になるかもしれない」

「なるほど。音楽と同じだな」

 正造は蓄音機を指さした。『カチューシャの唄』はいつの間にか終わり、蓄音機は沈黙している。「かつて音楽は一瞬で消えていく芸術だった。蓄音機ができるまでは。むろん今でも生演奏であれば一瞬で消えていくのは変わらない。どれほどの名演奏家も、同じ演奏の再現は不可能だ。最高に贅沢な芸術とも言える」

「最高に贅沢な芸術……」

 おうむ返しに答えた書生が、我が意を得たり、とばかり両手を握りしめて大きくうなずいた。「それなんですよ。舞台も同じです。最高に贅沢な芸術。再現が不可能で、一瞬で消えていく芸術であるのも同じです」

「一瞬で消えても、観客の記憶に残るのも同じですね」

 美貌の青年が微笑んだ。「その場に居合わせた観客だけしか記憶できませんが」

「それこそが『最高の贅沢』なんですよ」

 書生は握りしめた拳を振り回して、熱っぽく語り続ける。「汽車賃を払って劇場まで足を運び、窓口で料金を払い、座席についた客だけが堪能できる最高の贅沢です。そして公演する役者たち、演出家、大道具から小道具係まで、全員が毎回、やり直しの利かない真剣勝負に挑む。客の反応   笑い声や泣き声、ときには不満の声も即時に返ってきます。その反応を翌日の公演のための糧にすることもできる」

 よどみなく語り続ける書生は、役者も顔負けの滑舌の良さだった。ほうっておくと永遠に喋り続けそうだったが、女給が珈琲を運んできたので、喋るのを中断することにしたようだ。

 正造も珈琲を口につけてみたが、苦みの中に甘さも感じられる深い味は一年前と変わっていないようだった。銀座のカフェー・プランタンやパウリスタなどの洒落た店構えではなくても、隠れた名店だと思っていたのだ。客層が変わって寂れたように見えても、味は維持しているらしい。

 それが少しだけ嬉しくて、心に余裕ができた正造は書生に尋ねてみた。

「どんな芝居をやりたいのかね?」

「非常識な物語です」

 意外な答えが返ってきた。しかし書生の表情は大真面目だ。「社会で生活するためには、常識が必要不可欠です。ですが、絶えず常識的に行動し続けていると、思考もその常識で麻痺してしまう。常識から外れた物を見ても単純に『非常識』で片付け、すぐさま視線を他に移し、詳細に見てみようとは思わない。心が常識という麻酔で麻痺してしまっているんです。その麻痺から心を解き放つような物語を」

「……なるほど……」

 正造は喉から出かかった言葉をいったん呑み込んだ。脳裏に帝国劇場で観た松井須磨子の姿が浮かんだのだが、口にしていいものか迷ったのだ。しかし、

「それは『人形の家』と同じでは?」

 容赦のない声が割り込んだ。あの青年だ。カウンターのスツールが高いせいか、下目遣いで、睫毛の長さと物憂げな雰囲気がより際だって見える。「イプセン作の『人形の家』です。島村抱月の翻訳で、松井須磨子がノラ役を演じたはずですが」

「その舞台は残念ながら観てません」

 書生は気分を害した様子もなく、本心から残念だと首を振った。「たしか四、五年前にも再演されたんでしたよね?僕はまだ田舎の中学生でしたし、演劇に関しては無知だったんですよ。上京して演劇に目覚めてから、いつかまた再演されるのを期待してたのですが……ついに夢で終わってしまいました。でも、抱月先生の訳された脚本は読みましたし、あれもたしかに常識という麻酔で麻痺した心を解放する物語ですが   主人公が女性なので、『新しい女性』   雑誌の『青せい 鞜とう 』と並べて語られるものに焦点がずれてしまっているのではないかと考えます。たしかにイプセンは既存の常識を壊す作品が多いですし、『ペール・ギュント』ならば、僕の理想に近いのですが、ご存知ですか?」

「一応は。非常識な男を夢見て放浪しても、結局は『中庸』だと判定された男の物語ですね」

 青年があっさりと答えた。下目遣いのせいか、わずかに皮肉が含まれているようにも感じる。さらに、下目遣いのまま青年が正造に視線を向けた。「あなたは?」

「そうだな……。『ソルヴェイグの歌』は私も好きだよ」

 正造が無難そうな答えを選ぶと、書生が驚いたように振り向いた。

「歌までご存知なのですか? じゃあ舞台をご覧になったことも?」

「一度だけ   以前、欧州大戦前だが、仕事で北欧まで足を延ばしたことがあって、クリスチャニア(現オスロ)の滞在中にちょうど公演があると取引先に招待された。諾威ノルウェー 語はわからないから、英語の翻訳パンフレットを片手に、なんとか意味を理解した程度でしかないがね。放浪し続けるペール・ギュントを、盲目になりながらも郷里で待ち続ける恋人、ソルヴェイグの独唱だ。メロディが良かったので、レコードも買ってきた」

「レコードもお持ちなんですか」

 書生が下駄を鳴らしながら駆け寄った。「ぜひ拝聴を……あ、でも、僕が下宿させてもらっているお宅には蓄音機がないので……。友人の下宿先で蓄音機があるのは……」

「この店の蓄音機で掛けてもらえばいいのでは?」

 青年がカウンターの奥で珈琲を淹れている店主を振り向いた。「持ち込みのレコードも掛けてもらえますか?」

「いいですよ。私も聴きたいですから」

 店主がうなずいた。四十がらみの小男で、黒いスーツに黒いボウタイ姿は以前と同じだ。軽食は厨房で他の料理人が作るが、珈琲だけは店主が自ら淹れるのだ。「ですが、時間帯を選んだほうがいいかと。じっくり聴きたいのなら、今頃   夜九時頃でしょう。十時閉店ですから」

 その言葉に正造があらためて店内を見回すと、いつの間にか客が減っている。女給たちも所在なげに壁に寄りかかっている。懐中時計で確認すると、九時十五分だった。

「……厚かましいお願いですが、レコードをお持ちいただけますか?」

 書生が懇願するような眼で正造を見てから、深々と頭を下げた。「僕は英訳の『ペール・ギュント』を図書館で借りて読んだだけで、どんな舞台なのか、頭の中で想像することしかできないんです。想像というより空想に近い。歌だけでも拝聴できれば、多少は具体的に想像できそうな気がします」

「頭を上げたまえ」

 正造は書生の肩を叩いた。「あいにく今週末は所用で塞がっているが、来週なら都合がつけられる。君の都合は?」

「ありがとうございます!」

 書生がいったん上げた頭をもう一度下げてから、顔を上げた。「できれば、火、木、土曜日を。それ以外の日は下宿先で働かせてもらっているので……」

「苦学生なんだな。どんな仕事を?」

「雑用全般と家庭教師です。大家さんのご子息が受験生なので」

「わかった。では、火曜日   は、二十五日か。夜は特に用もないはずだ。来週の火曜日でいいかい?」

「はい。来週の火曜日、二十五日の午後九時頃ですね。万難を排して、必ず参ります」

 拳を握りしめて確約したのち、書生が、ぽんと額を叩いた。「自己紹介がまだでした。失礼しました。僕は瀬せ ノ尾お 孝たかし と申します。東京高商の専門部で学んでおります」

「一ツ橋か」

 汐留からは皇居の外堀をぐるりと回った北側で、最寄り駅ではない。「この店はよく来るのかい?」

 ちょっとした好奇心で正造が尋ねると、

「初めてです」

 あっけらかんと、瀬ノ尾と名乗った書生が笑った。「大家さんの遣いで汐留停車場に荷物を届けに来たのです。その後は好きに過ごしていいと言われたので、ちょっと奮発して珈琲でも、と寄り道したのですが   こんな出会いに恵まれるなんて、望外の幸運でした」

「私も楽しかった。私の名は草薙   草薙の剣つるぎ と同じ漢字を書く」

「日や 本まと 武たけるの 尊みこと に御縁でも?」

「まったくないし、剣術も不得手だ。武家の先祖にとっては不詳の子孫だな」

「御維新(御一新)は半世紀も昔になった大正の世ですから。明治は遠くなりにけり、ですよ」

 笑いながら、瀬ノ尾が椅子の背に掛けたインバネスを手に取った。かなり着古したらしく、黒い生地がところどころ擦り切れている。兵へ 児こ 帯おび の一寸袋から一銭銅貨を数えながら五枚取り出し、伝票と一緒にカウンターに置いた。「ごちそうさまでした」

「ありがとうございました」

 大きな掌で小銭をかき集めた店主が微笑んだ。「来週の火曜日が楽しみですね」

「早くも『一日千秋の思い』を実感してます」

 笑い返した瀬ノ尾が、スツールの青年に視線を向けた。「まだお名前を伺ってませんでしたね」

「僕は各務かがみ だ。江戸時代の俳人、各かが 務み 支し 考こう と同じ漢字だけど、縁もゆかりもない」

 青年も微笑んだ。「僕も来週の火曜日を楽しみにしてるよ」

「君も来てくれるのか。じゃあ、また来週に」

 嬉しそうに笑った瀬ノ尾はインバネスを羽織り、女給が開けてくれたドアから出ていった。

「では私も帰るか」

 正造はぬるくなった珈琲を飲み干して、立ち上がった。コートにマフラーの支度を終えてから五銭の白銅貨を出して伝票と一緒に女給に渡すと、カウンターを振り向き、軽く手を挙げて店主と青年に挨拶してから女給がドアを開けて待つ出口に向かった。戸口で振り返ると、青年はカウンターに肘杖をついたまま、正造を見送っていた。

 学生ではないようだが   職業は何だろう?

 そんな疑問が正造の脳裏をかすめたが、あの青年とも来週会えるのだから、そのときに訊けばいい。正造はソフト帽を目深にかぶり、店を出た。





     2





 すでに雪はやみ、せいぜい一寸ほどしか積もっていなかったが、瓦斯灯に照らされた汐留の街は白銀の世界だった。隅田川を望む海軍大学校も、その隣の浜はま 離り 宮きゆう の庭園も白銀に染まり、庭園を囲むように流れる汐留川と築つき 地じ 川の黒さが闇よりもくっきりとした帯のように浮かび上がっている。ここ数年、雨後の竹の子のように増殖している電柱も白く染まり、夜空を突き刺す不思議なオブジェのようだ。

 客待ちの俥はないかと、周囲を見回してみた。しかし、積もった雪に何本か轍わだち と車夫の足跡がついてはいるものの、俥は見当たらない。通常なら深夜まで満員の市電も、路面のレールが雪に隠れているから、運休になっているのだろう。

 カフェーを出る前に電話を借りればよかった   自分のうかつさを悔やんだが、もう店は閉まっているだろう。吐く息の白さに頬まで凍りつきそうで、マフラーを顎のあたりまで引き上げてから、正造は傘をステッキ代わりにして足を速めた。汽車も運休になっていそうだが、停車場に行けば俥も拾えるかもしれない。俥がなければ構内には電話があるから、屋敷に電話して車夫の森川に来てもらえばいい。

 正造は蓬ほう 莱らい 橋ばし と汐留橋を渡った。その向こうに汐留貨物停車場がある。かつての新しん 橋ばし 停車場   五年前に東京の終着駅としての座を東京駅に譲り渡し、「新橋」停車場という名前すらも、かつての「烏からす 森もり 」停車場に譲り渡し、「汐留町」という昔ながらの地名から「汐留」停車場と改名までさせられたが、明治五年に建造された石造りの駅舎だけは壊されずに済んでいる。いや、その石造りの駅舎があったからこそ、貨物専用の停車場として存続できたのだろう。

 とはいえ、「汽笛一声新橋を」と鉄道唱歌に歌われ、大人から子供まで旅路の始まりに胸を躍らせた停車場は、もはや、在あ りし日の面影を消した。明治から四十年以上もの間、いち早く文明開化を取り入れた紳士や淑女たちで華やいでいた構内は、積み上げられた荷物を汗臭い人夫たちが運ぶ殺風景な場所へと変貌してしまった。

 正造もこの停車場に来たのは、久しぶりだ。貿易商として商品を貨物列車で輸送してはいるが、出荷や入荷作業に立ち会うのは重要な取引のときだけで、大半は社員に任せている。来るたびに、今は亡き両親と旅をした少年の日の思い出が壊れていくような感傷もあって、無意識に足が遠ざかっていたのかもしれない。

 殊こと に一昨年の台風でホームの屋根が半壊した際は、新聞記事の不鮮明な写真を見ただけで気分が暗くなった。新聞を畳んで捨ててしまいたかったが、輸送への影響を把握する必要があって仕方なく文字だけに集中して記事を読んだ。その後、補修はされたが、貨物車のためのホームだから、美観は二の次の簡素な補修で済ませてしまったと、社員から聞いた   そう、聞いただけだ。あの台風以降、正造はこの停車場には一度も来ていない。思い出を壊す変貌を見たくなかったのだ。

 今   白銀の雪化粧を施した汐留停車場は、窓明かりが淡く輝き、灰色の石造りの建物も遠目には往年と変わらずに見える。しかし、玄関の近くにいるのは客待ちの俥ではなく、荷馬車から外した荷台や大八車だ。空から の荷台にも雪が積もっていた。

 モダンな三角屋根がついた庇の下に入ると、玄関ドアは閉まっていたが、灯りがついている。正造が取っ手に手を伸ばそうとすると、

「あんた、よしなよ」

 ふいにドア横の黒い塊が動き、嗄しわが れた声がした。「幽霊 がいるんだから」

 黒い塊が幽霊かと錯覚しそうなほど驚いたが、窓明かりでよく見れば、煤けて汚れた男だった。あちこち破れた褞袍どてら から飛び出た綿も汚れ、饐えた臭いも鼻につく。浮浪者だろうか。髪にも髭にも白髪が交じり、煤が顔の皺に深く入りこんでいる。

「幽霊?」

 正造は傘の柄を握り直しながら尋ねた。いざとなれば傘を武器にすればいい。「この停車場にか?」

「そう。人夫たちが噂してたんだ。真夜中に仕事を終えて帰った後、忘れ物を取りに引き返したら、幽霊が出たんだとさ」

 男が周囲を見回しつながら嗄れ声を潜めた。「それも、異人さんの   若い男の幽霊だったらしいぜ」

「異人……。洋装だったから異人だと勘違いしたわけではないのか?」

「でも、外国語を喋ったとか」

「なるほど。なぜ幽霊だと思ったんだ? 足が無かったのか?」

「足はあったのかな。でも……その人夫が異人さんに『迷子にでもなったのか?』って声をかけたら、異人さんがこう答えたんだってさ。『アイマゴースト』   その人夫が後で知り合いの学生さんに尋ねたら、『俺は幽霊だ』って意味なんだってさ」

「なるほど。英語なら、そういう意味になるな。幽霊の自己紹介か」

 真面目に相槌を打ちつつも、正造は内心で苦笑していた。その西洋人の冗談かもしれないし、聞き間違いかもしれない。それに『幽霊の正体見たり枯れ尾花』とも言うではないか。怖い怖いと怯えていると、芒すすき の穂でさえ幽霊と錯覚してしまうものだ。

 しかし男は、ごくりと唾を飲み込み、意味ありげにつぶやいた。「その後、消えたんだとさ」

「消えた……。どんなふうに?」

「どんなって……だから、こう、ふっと見えなくなっちまったんだよ」

「なるほど」

 正造は一秒だけ考えてから、相槌を打った。見えなくなったのは、単に灯りの届かない場所に動いただけかもしれないが、この男は幽霊を信じているらしい。「それで? 消えたあと人夫はどうしたんだ?」

「そりゃ決まってるじゃねえか。逃げ出したんだよ。忘れ物も忘れてさ……。で、翌日、仲間の人夫たちにその話をしたら、『俺も会ったことある』って奴が何人かいてさ。一人で居残ってたり、用事で戻ってきたときに出くわしたらしいぜ」

「一人でいるときにしか幽霊は出てこないのか」

「らしいな。大勢いるときには出てこねえ。だから、あんたも一人だろ? 入らねえほうが……」

「その幽霊は何か危害でも加えるのか? 刃物を持って襲ってくるとか?」

「……さあ。そこまでは……」

「では、大丈夫だろう。私は幽霊よりも凍傷のほうが怖いよ」

 正造は笑い飛ばし、男に背を向けて玄関ドアを開けた。

「……まあ、すぐに逃げ出してくるさ」

 そんなつぶやき声が聞こえたが、男は追っては来なかった。構内に入ると、電灯の明るさだけでなく、寒さが和らいだので一息つけた。あの浮浪者も中にいたほうが寒さをしのげるだろうに、入らないのは幽霊のせいか。警官の巡回で追い払われるからか。

 ともあれ、電話を探すのが先だ。貨物庫は盗難防止のために厳重に施錠されているはずだが、電話室は貨物庫の外にもあったはずだと、以前に見かけた記憶を辿りながら木骨が天井まで張り巡らされた構内を見回していると、壁に貼られたポスターが眼に入った。

 若い女性の絵に「手当が早ければすぐ治る」と記されている。政府が用意した西班牙スペイン 感冒の早期発見をうながすポスターだ。

「奇遇ですね、草薙子爵」

 ふいに声が聞こえた。聞き覚えのある柔らかな声   正造は振り向く前から声の主がわかったと思った。

 はたして   そこに立っていたのは、先ほど「カフェー夕汐」で会った美貌の青年、各務だった。スーツの上に黒いコートを羽織り、黒のソフト帽をかぶった黒ずくめの装いだが、どれも欧州で仕立てた最高級品だろう。特にソフト帽はボルサリーノなのは間違いない。正造が今かぶっている消し炭色チヤコール の帽子の色違いだ。

「子爵だと名乗った記憶はないが」

 正造がそう口にしながらも、あのカフェーにいたときから、青年が正造を知っていたような気がしていたのだ。「私を知っていたのか」

「当然でしょう。華族の動向は新聞記事になりやすいですし、あなたは若くして貿易商としても財を築いた。貴族院議員の選挙でも、立候補すれば間違いなく選出されるはずなのに、固辞し続けていらっしゃる」

 両肩を軽く竦めて説明してから、各務はいったん口を閉ざし、数秒ほど間を置いてから言った。「訃報も読みました。奥様も西班牙感冒が原因でしたね。先ほどのカフェーでの発言は、失礼しました。あなたにもお辛い記憶に触れてしまったのでは?」

「いや、謝罪は不要だよ。西班牙感冒の話題は、今や天気の話と同じほど身近になってしまったから」

 正造は壁に貼られたポスターを手で示した。心の中で「手当が早くても治らないこともあるけどね」とつぶやきながら。このポスターは早期治療を訴えるだけでなく、早期発見による感染防止をも目的としたものだろう。

 妻の桜子が危篤になったとき、桜子の実家である大磯家から両親が駆けつけたが、軍医の山下は「無慈悲な判断だとお責めになってもかまいませんが」と前置きした上で、「桜子さんにはお会いになれません」と告げたのだった。「大磯家にも感染が広がる危険がありますので」

 義父は怒鳴り返した。「かまわん! 西班牙感冒とやらが儂わし を殺すのなら、勝手に殺せばいい。そこをどけ! どかなければ君を殺す」

 白衣の衿を掴まれ、山下は仕方なく「マスクをかける」ことを条件に義父母を寝室へ通した。日頃から高級将校の診察をすることもある山下が折れたのは、義父の剣幕に恐れをなしたからではなく、娘を思う父親の心境を思いやったからだろう。マスクとて気休めでしかないのは義父もわかっていたはずだが、娘を看取るためなら、百枚でも二百枚でもつけたことだろう。

 幸いにして義父母には感染しなかった。正造も使用人たちも、今のところは感染の兆候はない。しかし   ……。

「そのポスターをご覧になりにいらしたんですか?」

 各務の声に正造は我に返った。

「いや、電話を掛けに。屋敷から俥を呼ぼうと」

「俥ですか。自動車ではなく? たしか貿易商でいらっしゃいましたよね」

「紺屋の白袴でね」

 正造は苦笑した。「顧客の分の輸入を優先して、自分の分は後回しになってしまっている。しかも今年になって自動車取締令が公布されただろう? 雇いの車夫と一緒に警察署で運転の講習を受けているところだよ」

「よろしければ、僕がお送りしましょうか? 残念ながら、ロールス・ロイスではなく、廉価なT型フォードですが、最新型なので屋根もついてますから、俥よりは暖かいはずです」

「君が運転するのか?」

「ご安心を。警察でしっかり講習を受けて甲種の免許を取得しましたから」

 各務が微笑んだ。意外な申し出に正造は驚くばかりだった。知り合ったばかりで名前しか知らないも同然だが、悪人には見えない。一瞬だけ迷ったものの、ありがたく受けることにした。

「本郷区の駒込なんだが、道はわかるかな?」

「大丈夫です。電車道を北に向かえばいいでしょう」

 こともなげな各務は、頭の中に地図でも入っているかのようだ。車夫も東京市内の道をあらかた憶えているものだが、各務も自動車を運転して憶えたのだろうか。

「では、頼む。そういえば、君は何の用でこの停車場に?」

「好奇心ですよ。貨物列車も雪で止まっている夜中に、立派な身なりの紳士が駅舎に入っていくのを見かけたので、不思議に思って」

 西洋風に肩をすくめて玄関に向き直った各務は、歩き出しながら思い出したように笑った。「そういえば、この停車場には幽霊が出るという噂ですよ」

「君も聞いたのか」

 正造も笑いながら玄関のドアを指さした。「私も先ほど、あのドアの前で浮浪者から聞いたのだが」

「僕はここの人夫から聞きました。同じ幽霊でしょうかね?」

「私が聞いた幽霊は、若い男で外国人   洋装の日本人かもしれんが、英語で『僕は幽霊だ』と名乗ったとか」

「同じです。僕が聞いた話と。他には?」

「他には……突然、消えたとかいった程度だな。君は?」

「双子だとか」

「二人も幽霊が現れたのか」

「いえ、現れたのは一人ですが、双子の兄弟が横浜にいるという話ですよ。その話も英語だったらしいので、どこかで翻訳が間違っている可能性もありますが、とにかくその双子の兄弟を探しているそうです」

「つまり……その双子の兄弟に会うまでは成仏できない?」

 正造は唖然とした。ただの噂だと思っていたのに、奇想天外な尾お 鰭ひれ まで付け加わってしまった。亜米利加のエドガー・アラン・ポーなど欧米の推理小説は正造も好んで読んでいるが、どことなく、その世界の幽霊に近いような気がする。

「僕が聞いた噂話をまとめると、そうなりますね」

 各務も戸惑っているようだったが、ドアを開けると、「どうぞ、お先に」と片手を差し出した。

「ありがとう」

 礼を言って正造は先に外へ出た。先ほどの浮浪者がドアの横に貼りつき、硝子越しにこちらを伺っていたらしい。慌てて飛び退こうとして尻餅をついた。

「……幽霊は……出なかったのか?」

 床に座り込んだまま、眼だけをきょろきょろ動かして正造と各務を見上げる。

「残念ながら会えなかった」

 正造は何食わぬ顔で答え、浮浪者の横を通り過ぎた。

「僕が来て二人になったからかもしれませんね」

 各務も笑いを含んだような声だ。「幽霊は一人でいるときにしか現れないそうですから」

「……やっぱり一人だと出るのか……」

 浮浪者の声には恐怖よりも落胆のほうが強く感じられた。幽霊さえ出なければ、中に入って寒さをしのぎたいのだろう。

「一人なら常に幽霊が出るというわけでもないと思うよ」

 各務が浮浪者に屈み込んだ。「出ないかもしれないし、こんな雪の日に外で夜明かししたら、それこそ君のほうが幽霊になってしまいかねない。警官の巡回が怖いのなら、ボイラー室の外が穴場かな」

「……ボイラー室って、今は汽車も動いてねえよ」

「汽車のボイラー室ではないよ。この駅舎のボイラー室」

「そっちのボイラー室か」

 浮浪者が弾かれたように起き上がった。「そうか、あそこなら警官もめったに来ねえし、来ても隠れる場所もある。ありがとよ」

 褞袍の裾を踏んづけて、つんのめりそうになりつつも、浮浪者は嬉しそうに駆け去った。老人のような見かけよりもずっと若そうだ。

「さて、僕たちも行きましょうか」

 各務が微笑み、闇を指さした。「見えにくいでしょうけど、僕の自動車はあそこに停めてあります」

「そうか、T型フォードの車体は黒のみだったな」

 大量生産のために、黒の一色に絞ったのだと聞いたことがある。しかも黒い塗料は最も乾きやすいから、乾燥時間も短縮できる。正造は海外の業界紙で読んだ逸話を思い出しながら、各務の後に続いてT型フォードに歩み寄った。

 黒一色とはいえエナメル塗装で仕上げられているので、窓明かりや街灯が反射して、車体を闇に浮かび上がらせている。自動車としては小型ながらも五座席   つまり五人乗りで、幌ではなく屋根もついているから、それなりに大きい。これが亜米利加では、缶詰のようにベルトコンベアーで運ばれて製造されるとは   想像もできない世界だ。

「どちらの席にお座りになりますか? 前か、後ろか」

「君の運転を見たいから、前の助手席がいいな。いや、君が運転しにくいのなら、後ろの座席でもいいが」

「運転の講習中でしたね。いいですよ」

 各務が快く応じ、正造が助手席に、各務が運転席に乗り込む。電気式のヘッドライトが灯り、最新式の電動式セルフスターターで苦もなく出発した。「ただし、ご存知でしょうけど、T型フォードの運転は簡単すぎて『乙種』免許でも許可されてるほど簡単ですよ」

「それも世界中で売れている要因だろう。他の自動車よりも廉価なだけでは、年間五十万台も売れるはずがない」

「五十万台……そんなに売れてるんですか。いや、むしろこんな大きな機械の塊を年間に五十万台も製造できるのも驚異ですね」

「たしか、一台を組み立てるのに二時間はかからないと聞いたな。一時間半か」

「一時間半……つまり、これも一時間半で出来上がった」

 驚嘆したように首を振りながら、各務が片手でダッシュボードを叩く。「その一時間半は組み立てだけの所要時間で、各部品の製造にはもっと時間がかかっているのでしょうけど、僕たちが先ほどカフェーで芝居談義をしていた間に、亜米利加の工場では、T型フォードが一台、完成していたわけですか」

「そうなるな」

 正造も笑うしかなかった。一桁どころか二桁、いやそれ以上に規模が違いすぎる別世界だ。その別世界で製造され、船積みされ、千波万波を越えて運ばれてきた自動車を、今、各務は慣れた動作で運転している。タイヤには滑り止めの鎖が装着してあるらしく、かすかな金属音はするものの、雪道でも軽快な走行だ。「君は亜米利加に行ったことは?」

「一度も。残念ながら日本から出たことはありません」

「……それは意外だな。失礼だが、何のお仕事を?」

「無職です」

 あっけらかんとした答えに続き、さらに意外な説明が返ってきた。「以前は、執事をしていましたが」

「執事……か」

 華族や富豪で執事を雇用している家は多い。亡き妻の実家、大磯家にも執事はいるが、草薙家にはいない。江戸時代まで遡れば、執事に近い家老もいたはずだが、とにかく正造が物心ついたときには、家事を取り仕切るのが女中頭で、父の仕事を補佐するのは秘書だった。両親が他界した今も、それは変わらない。「穿鑿するようだが、どのようなお宅の執事を?」

「亜米利加人のご一家です。ご家族で来日なさって、大使館関係のお仕事をなさっていましたが、帰国されました」

「では、君は英語を?」

「日常会話なら。母が亜米利加人でしたので   執事として雇用されたのも、その縁ですが」

「お父上が日本人?」

「ええ。父が留学中に知り合ったそうです。二人とも亡くなりましたが、多少の財産を残してくれましたし、執事として働いていた間の蓄えもあるので、しばらくは生活に困ることもないでしょう。この自動車は僕には高額の出費になりますが、執事として働いていた五年間、ほとんど外出しなかったので、遅ればせながらの長期休暇、東京見物の友として購入したわけです」

 楽しそうに語る各務の横顔は、たしかに異国の血が入っているのだと納得できるほど、彫りが深かった。第一印象で西洋画の美女を彷彿とさせると正造が感じたのは、あながち間違いでもなかったらしい。

 とはいえ、執事だったとは   西洋の書物や劇、活動写真ではたいてい年配の、酸いも甘いもかみ分けるような人物が采配をふるっていたものだが、この若さで務まったのか   いや、来日したばかりで日本語や日本の事情に不案内な亜米利加人家族であれば、まず英語が通じて、かつ日米双方の文化にも明るいことが第一条件だろうし、各務はその条件を満たしている。

「執事には若すぎるとお思いでしょう?」

 正造の心を読んだかのように、各務が笑った。「実のところ、『バトラー』は雇用主の一家が呼びやすい職業名だっただけなんですよ。仕事上の通訳も秘書も、すでに大使館を通して雇用済みでしたし、僕は仕事には関与せず、邸宅に住み込みで奥様と女中との間の通訳をしたり、お客様の応対をしたりといった仕事でした。しかも、ご子息の名前がケネスだったんですよ。愛称はケン。僕は賢けん 治じ なので、混同しやすい。実際、母が僕をケンと呼んでましたから。というより、僕が生まれたとき、母にも呼びやすい名前をつけたそうですが」

「なるほど、ケネスも賢治も知性的な意味なのも同じだな」

「……さすがにお詳しいですね」

「この種の雑学を仕入れておくと、取引先との交渉が円滑に進むこともあるから」

 さりげなく説明しながら、正造は前方に黒い掘割りのような川が近づいてきたのに気づいた。神田川だろう。お茶ノ水橋を渡りながら下を見ると、甲武鉄道お茶ノ水駅も、うっすらと雪化粧をして静まり返っている。

 鉄橋の上を路面電車が走る、と東京名所にも挙げられたお茶ノ水橋だが、今、鉄橋を渡るのは、このT型フォード一台だけだ。市電のレールは雪の間にところどころ見える。夜空には雲の合間に星も見えてきたから、明日の朝は運行を再開できるかもしれない。

 橋の向こうは、本郷区   東京帝国大学の赤門を通り過ぎると、谷中の寺社が並ぶ一画になり、その先が駒込だ。寺には当然ながら墓地もあり、墓石の列に、ふと汐留停車場での幽霊話を思い出したが、

「その角を左に曲がってくれるか?」

 自宅が近づいてきたので、正造がそう頼むと、

「了解いたしました」

 各務が手慣れた様子でハンドルを切った。寺も墓地も遠ざかり、ほどなくして、黒い瓦屋根が連なる白い土塀の向こうに見事な枝振りの松が見える草薙邸の前に到着した。「……純和風建築だったんですね」

 てっきり洋館だと思い込んでいました、と各務が雪の花を咲かせた松を見上げた。

「建てたのは祖父だからね。内装だけ洋風に改装した部屋もあるが」

 正造は自動車を降りてから懐中時計を見た。「十一時を回っているが……寄っていくかね?」

「いえ、今日はこれで帰ります。来週の火曜日にまたお会いできるでしょう」

「そうだな。送ってくれて、ありがとう」

「どういたしまして」

 各務が軽く手を挙げて挨拶し、自動車を発進させた。向きを変えずに、そのまま路地を去っていくT型フォードを見送りながら、正造は各務の住所を訊くのを忘れていたことに気がついた。





     3





「T型フォードの輸入代理店はセール・フレーザー商会だったな」

 翌日の土曜日、横浜にある草薙貿易商社に出社した正造は、真っ先に秘書の栗くり 田た に指示した。「すぐに連絡を取ってくれ。三台ほど注文したい」

「三台も?」

 手帳を開きながら尋ねる栗田は、怪訝そうだ。正造の父の代には栗田の父が秘書を務めていて、親子二代に渡る長年のつきあいで気心は知れているし、欧州での視察にも同行もしているから、亜米利加よりも欧州の歴史を刻んだ製品を好む正造が、突然、亜米利加の自動車を注文しろと言い出したのが腑に落ちないのだろう。

「一台は私が個人で使用する。二台は我が社の社用車とする」

 英国から輸入した樫材の大型デスクと革張りの椅子の社長席に座りながら、正造は説明した。「昨夜の雪で痛感したんだよ。積雪は一寸もないのに、市電は運休、俥もつかまらん。乗合馬車が懐かしくなったが、廃止された交通機関が復活するわけもない。となれば、気軽に乗れる自動車が必要だ。乙種免許でいいのなら、社員たちが免許を取るのにさほどの時間もかかるまい。タクシー自動車もT型フォードだが、東京が拠点だ。社用車として購入してしまったほうが、利便性もいいし、長い目で見れば安上がりだろう」

「安上がり……になるでしょうか。車庫や給油はどうなさいますか?」

「倉庫を拡張して車庫にし、オイルも購入すればいい。山下居留地の外国商社や山手の西洋館と取引のある業者を当たればいいのではないかな」

「なるほど……。あのあたりは自動車をよく見かけますね」

 手帳にメモを取りながら栗田がうなずいた。「では、とりあえず、セール・フレーザー商会に連絡して、T型フォード三台の見積もりを出してもらいます」

「頼む」

 正造は一仕事を終えたような気分で、デスクに乗ったウエストミンスターの缶に手を伸ばした。黄色い缶には倫ロン 敦ドン のウエストミンスター寺院が描かれている。中から両切り煙草を一本取り出し、燐寸マツチ を擦って火を点けた。

 火薬が燃える臭いは一瞬で消え、上品な煙草の匂いが紫煙とともに立ち上っていく。ヘビースモーカーではなく、気分転換に嗜む程度だが、やはりこれも英国製だとふと思う。あの各務ならば、亜米利加製のポールモールあたりを好みそうだ。来週にでも訊いてみようか。

「社長」

 壁に備え付けた電話機のフックに受話器を戻した栗田が、戻ってきた。「セール・フレーザー商会と連絡が取れました。欧州大戦による物価上昇の影響で納期によって価格の変動がありそうですが、船賃や関税などを入れて、三台でざっと二千ドル程度になりそうです」

「ロールス・ロイスなら一台も購入できない価格だな。まだ数年はT型フォードの寡占状態が続くだろう。大戦の終結で他のメーカーも軍用車から乗用車に軸足を移したはずだが、設計から完成まで時間がかかる。特に革命で帝国が崩壊した露ロ 西シ 亜ア や独ド 逸イツ    墺太利オーストリア あたりは大混乱だろう」

 革命が起きた国を指折り数えて思い出しながら、正造は記憶に霞みがかかっているような曖昧さを感じていた。

 去年の秋に桜子が急逝した後は、正造自身がどうやって生きてきたのかさえ曖昧だ。露西亜で革命が起きたのは七月だから、桜子が亡くなる前だったはずだが、それさえ遠い昔に思える。ただ、大戦の行方も、革命による帝政の終焉も、欧州との貿易に直結したから、情報収集と対応に奔走はした   いや、奔走して日々を忙殺されることによって桜子を喪った絶望を忘れようとしていただけかもしれない。

 あれから五ヶ月

「独逸ではまだ革命派と反革命派が揉めてますしね」

 うなずいた栗田が、手帳のページをめくった。「では、正確な見積もりが届き次第、商談を進めます。それと、社用車の運転免許ですが、まず取得済みの者がいないかの調査から始めたほうがいいのではないでしょうか」

「取得済みの者がいるのか?」

「最低でも一人はいます。僕です」

 にこりともせずに栗田が自分の胸を手帳で叩いた。

「……初耳だ」

「先月の自動車取締令が発令されてすぐに甲種免許を取得しました。社長はロールス・ロイスに乗るものと思い込んでおりましたので」

「いずれそうなるはずだが……。驚いたな。どこで練習を?」

「警察です。義兄が消防ポンプ自動車の導入に伴って訓練をしておりましたので、頼み込んで教わりました」

「そうか、奥方の兄上は、警視庁消防部の所属だったな」

「はい。義兄は昨年、交通課に赤バイが配属されたときに悔しそうでしたが、今回のポンプ自動車の導入で有頂天でした。僕も初めて運転席に座ってハンドルを握ったときは心が躍りましたし、運転できたときはやはり有頂天でした」

 思い出したのか、栗田はいつになく饒舌だ。

「社用車が二台では争奪戦になるかもしれんな」

 正造も苦笑しつつ、社員たちの運転免許に関しては栗田に任せることにした。それから通常の仕事をこなし、半ドンの鐘と同時に社を出た。

 雪はすっかり解け、青空のもと、群青の海が広がる横浜港は往来する大型貨物船が水平線の涯までくっきりと見え、ときおり汽笛や出港の銅ど 鑼ら の音が響く。埠頭に広がる広大な埠頭税保管倉庫の赤煉瓦も陽に赤く映え、周辺では荷揚げ品を満載した馬車と人夫たちが群れをなしている。

 いつものとおり社用の俥で横浜駅に戻ろうとして、ふと気が変わり、車夫に桜さくら 木ぎ 町ちよう 停車場へ行くよう命じたのは、昨夜の奇妙な幽霊話を思い出したからだった。

(双子の兄弟が横浜にいるという話ですよ)

 たしか、各務はそう言ったはずと記憶を辿る。

(その双子の兄弟を探しているそうです)

 双子   単なる偶然かもしれない。だが、幽霊が出たのは汐留貨物停車場   かつての新橋停車場だった。そして、横浜にも双子に相当する停車場 があるのだ。

 かつての横浜停車場   現在の桜木町停車場だ。新しい横浜駅が建築されたため、名前を変えられてしまった境遇も同じだが、もう一つ、相似点がある。

 駅舎の形だ。同じ設計図で建築したのだから、当たり前かもしれない。明治五年に鉄道が開業したとき、まるで双子のように瓜二つな新橋停車場と横浜停車場の間を初めて蒸気機関車が走ったのだ。それは明治の世が終わって大正に入っても続いたし、正造にも当たり前の感覚だった。

 五年前に中央停車場   東京駅が開業するまでは

「君の知り合いに双子はいないか?」

 桜木町停車場が近づいてきたとき、正造は車夫に尋ねてみた。

「双子なら、近所にいますよ。女の子で……そろそろ嫁入り前って年頃ですかね」

「瓜二つか?」

「小さい頃は見分けがつかなかったですね。お揃いの服を着て同じお下げ髪だったから。でも、今は簡単に見分けられます。片方が、ええと、モガっていうんですか? 断髪に洋服で大股で歩いてますから。もう片方は、島田の髷に着物、おっとりとした性格で   そのせいか、顔もそれほど似てないなあと思うときもありますね」

「両極端に成長したようだな。姉妹の仲はいいのかい?」

「悪くはねえと思います。ただ昔ほど一緒に連れ立って出歩くことが少ないような……。でも、双子じゃなく普通の姉妹だったら、しごく当たり前のことですよね? 学校に通い始めれば、それぞれに友達ができて……。俺は男の兄弟ばかりでしたが、小学校にあがると友達と遊ぶ時間のほうが多くなりました」

「なるほど、君の言うとおりだな。双子だとつい二人一組にまとめて考えてしまうが、少しだけ歳が近い兄弟姉妹でしかないんだな」

 素直に感心した正造は、駅舎を見やった。同じ設計図で出来上がった双子の駅舎   木骨に斑入りの伊豆石を使った石張りなのも汐留と同じだが、築後六十年を経れば、周辺の施設や風景も変わり、それこそ服装や髪型が違う双子の姉妹のように、似ていない部分も散見できる。しかも、こちらは旅客用なので、行き交うのは、荷馬車ではなく紳士淑女を乗せた俥や自動車だ。

 普選運動のデモか集会をやっているのか、デカンショ節ぶし を歌う一群もいて、警官の制服姿もあちこちに見える。その中に、五つ釦ぼたん の黒い制服を着た男を見つけた。腰に短剣を吊っているのは、駅長としての装備品だ。

「あの駅長のそばで停めてくれ」

 正造は車夫に命じつつ、駅長に向かって声を掛けた。「失礼、駅長さん」

 駅長が振り向いた。立派なカイゼル髭を生やした四十絡みの男だ。

「私をお呼びですか?」

「ええ、お忙しいところ恐縮ですが、お伺いしたいことがありまして」

 俥が停まったので、正造は降りてから、単刀直入に用件を話した。「奇妙な話なのですが、こちらの駅舎に幽霊が出るなどという噂はありませんか?」

「……何が出るという噂ですか?」

 駅長は聞き間違ったと思ったらしい。

「幽霊です」

 正造が真顔で答えると、駅長は絶句し、困惑げにカイゼル髭を指でつまんだ。「ですから奇妙な話だと前置きしたのですが」

「……幽霊ですか」

 確認するように駅長が尋ねたのは、とりあえず正造の服装が裕福そうに見えたからだろう。「どこでそんな噂を?」

「汐留貨物停車場です」

 正造は昨夜の浮浪者や各務から聞いた話を要約して伝えた。そして、横浜に双子の兄弟がいるらしいという噂も

「それなら横浜停車場でお尋ねになったほうが……」

 首とカイゼル髭をしきりにひねりつつ聞いていた駅長が、そこでふと思い当たったように、ひねるのを止めた。「なるほど、汐留はかつて新橋停車場でしたね。そしてこの桜木町停車場はかつて横浜停車場だった」

「さすがは駅長さんだ」

「私はまだここが横浜停車場だった頃から勤務しておりますから」

 駅長はやや得意げに胸を張った。「それに、二つの駅舎がリチャード・ブリジェンスの設計による同じ設計図で建築されたことも承知しております。双子と言えますな」

「そう、設計者は亜米利加人でしたね? 幽霊も、目撃した人夫たちが、外国人に見えた、と言っているそうです。英語で『僕は幽霊だ』と名乗ったとか」

「たしかに、その幽霊の境遇と、駅舎の境遇が似てますな」

 大きくうなずいた駅長が、またカイゼル髭をひねった。「それで、この停車場でも双子の幽霊が出るのではないか、と?」

「なんとなくそう考えたわけです。こじつけ過ぎかもしれませんが」

 苦笑しつつ、正造は内ポケットから名刺入れを取り出し、一枚を駅長に差し出した。「ご挨拶が遅れましたが、私は草薙と申します」

「……これは……子爵様でいらっしゃいましたか。ご無礼いたしました」

 とたんに恐縮した駅長に、正造は軽く手を振って制し、

「ただの好奇心で調べてみたくなったので、身分は関係ありません。それより、幽霊の噂ですが」

「私には初耳です。いえ、他の幽霊の噂なら、これまで数え切れないほど聞いたことがあります。なにしろ築後半世紀も経つ古い建物ですし、鉄道の開通当時から事故も何度かありましたから、幽霊の噂はつきものです。しかし、旧新橋停車場と双子の幽霊などという話は、今回が初耳で」

「そうですか……。まあ、汐留のほうは貨物専用になってしまったので、人夫が目撃したわけですが、こちらは旅客用のままですから、噂になりにくいのかもしれませんね」

 正造は引き下がることにした。「ですが、個人的にとても興味がありますので、もしも何か小耳に挟むようなことがありましたら、その名刺の電話番号にご連絡いただけないでしょうか」

「この番号ですね。はい、承知いたしました」

「では、私はこれで。貴重なお時間を割いていただきまして、ありがとうございました」

 帽子を取って丁重に挨拶してから、正造はまた俥に乗り込んだ。「横浜停車場に」

 そう告げてから、ふと背後を振り返ったのは、虫の知らせだろうか。

 はたして   立ち去ろうとする駅長の向こう側に、美貌の青年が立っていた。

 各務賢治だ。鳶とび 色の髪が映える黒い帽子に黒いコートの黒ずくめも昨夜と同じだが、視線は正造ではなく、駅舎に向けられている。正造は声をかけようかどうか迷ったが、青年は駅長を追うようにして庇の下に入ってしまった。

「今の横浜停車場ですね」

 車夫も俥を引いて走り出している。正造と駅長の会話を聞いていたらしく、「数年前までは、横浜停車場と言われれば、この停車場でしたね」

「そうだな。その頃も君に送ってもらっていたな」

「もちろんでさあ。俺はあの駅長になるずっと前から車夫をやってますからね」

 嬉しそうな笑い声が車夫の屈強な背中越しに聞こえる。「それにしても奇き 天て 烈れつ な幽霊話ですね。さっきの双子の話はその幽霊のことだったんですか」

「そうだ。駅舎と人間の双子を一緒に論じるのもおかしいが、共通する点もあるかと思ってね」

「新橋の停車場と双子って……そんなに似てるんですか?」

 背中越しに戸惑ったような声が聞こえた。「見たことないんですよ。ずっと横浜にいますから。東京の停車場は一度だけ……三年前に女房のお供で行きましたが、途中で新橋停車場を通ったかどうかも憶えてなくて」

「三年前なら、今の新橋停車場だ。双子ではないほうの。昔の新橋停車場は、そうだな、さっきの君の話で例えるなら、その双子の姉妹が五歳の頃くらいには似ていたはずだ」

「五歳なら、二人ともおかっぱ頭で、お揃いの着物を着てた頃ですね」

「そう。今はその双子の姉妹が大人になったくらい違うだろう。なにしろ貨物専用になってしまったから」

「貨物専用……ってことは、東横浜停車場みたいなものですか」

「そうだな。建物そのものは残っているが、駅舎周辺の様子は東横浜に近いな。人夫と荷車ばかりだ。断髪で洋装になってしまった双子の片割れみたいなものかな」

「……それは……残念です。子供の頃の新橋停車場を見たかったです。もう見られないんでしょうね」

「……無理だな」

 正造はそれだけ答え、心の中で、「五年前まで時間を戻れるような奇蹟でも起きない限り」とつぶやいた。

 五年も戻らなくてもいい、ほんの一年でいいから過去に戻れれば   そんな奇蹟が起きれば、ふたたび桜子と会うこともできるし、西班牙感冒にかからないよう、外出を控えさせるなどの、あらゆる手段を執ることもできる。桜子が死なずに済む   しかし、それは不可能だ。

 やがて新しい横浜駅が近づいてきた。赤い煉瓦造りで高架の線路が正面の壁面に沿って敷設されているので、まるで庇の上に線路が乗っているようにも見える。これからは高架鉄道の時代だ   独逸の首都、伯ベル 林リン のように、美しい煉瓦造りの家が並んだ街を煉瓦造りの高架橋が貫き、列車が縦横無尽に走る時代が来る。地上の道路を走る自動車や俥、馬車の通行を妨げることなく、線路で人が列車に轢かれることもない。

 だからこそ日本政府は独逸から技術者を招しよう 聘へい したのだし、東京駅も高架鉄道を考慮した設計になっている。かつての新橋停車場は、高架線など夢の夢の時代に設計されたものだし、駅舎も乗降客が少なかった時代のもので、今や狭すぎる。

 初代の横浜停車場   今の桜木町停車場も、一時しのぎで、老朽化が進んだら建て直されるだろう。要するに時代遅れなのだ。

 いつものように正面玄関前で俥が停まると、正造は降りながら、車夫に訊いた。

「自動車の運転手になる気はないか?」

「……俺が?」

「明後日の月曜にでも、秘書の栗田から連絡させるつもりだが、我が社でも自動車を導入しようと思う。運転手が必要だ。他の社員たちにも練習させる予定だが、君ならすぐに免許も取れるだろう。もちろん講習に必要な費用は社で用意する」

「……俺にできるでしょうか。機械は苦手で……」

「運転が簡単なT型フォードだから大丈夫だ。それに我が社の運転手に必要なのは、まず土地鑑かん だよ。目的地に迷わずに到着できるのが最優先だ。君が自らの足で俥を引き、横浜中を走り回って憶えた道順や経験は、何物にも代えがたい貴重なものだ」

「……あ……。その……。お約束します!」

 車夫は唖然としたように口を開けてから、いきなり頭を下げた。「必ず免許を取ってみせます。自動車で社長を送り迎えするのも、俺の役目だ」

「期待してるよ」

「はい」

 嬉しそうに笑った車夫が、正造の背後を指さした。「T型フォードってあれですよね?」

 正造が振り返ると、黒いエナメルの車体が陽光を跳ね返して近づいてくるところだった。運転席でハンドルを握っているのは

「おや、これはまた偶然ですね」

 各務賢治が片手を挙げて手を振った。





     4





 火曜日の夜九時、「カフェー夕汐」に正造が『ソルヴェイグの歌』のレコードを持参したときには、すでに書生の瀬ノ尾や各務も来ていて、店主も珈琲を淹れながら正造の到着を待っていた。

「他のお客さんには『貸し切り』だと説明して、お帰りいただきました」

 当たり前のような顔で店長が説明した。女給や料理人たちも、早めに帰宅させたらしい。そのせいか、ビールの匂いはすでに消え、珈琲の香りだけが店内を往年の頃の雰囲気に戻しているようだった。

 各務は先週と同じくカウンター席に座り、正造と瀬ノ尾も同じテーブル席に座った。店主が珈琲を配り終えてから、おもむろにレコードを蓄音機にかける。

 哀愁を帯びた旋律とともに澄んだ女性の歌声が流れ出した。諾威ノルウェー 語は店長を含め、全員がわからない。それでも、最初のフレーズを聴いただけで、息をひそめて耳を澄ましたのは、銘々の心に訴えるものがあったからだろう。

 六分にも満たない曲が終わり、夢から覚めたかのように我に返っても、しばらく沈黙が続いた。瀬ノ尾の頬には涙が流れていたが、本人は気づいてもいないようだった。

「……魂の歌ですね……」

 やっと瀬ノ尾がそうつぶやき、顎を伝った涙がテーブルに落ちたのに気づいたらしい。慌てて手で拭い、さらに眼鏡も外して手ぬぐいで拭きながら、涙声で続けた。「本当に素晴らしいです。いちおう予習はしてきたんですよ。歌劇のために作曲したのは、エドヴァルド・グリーグで、ソルヴェイグの独唱は二つあって、一つが、この『ソルヴェイグの歌』で、もう一つが、歌劇の最後を飾る『ソルヴェイグの子守歌』だ、とかね。ある程度の知識があれば、諾威語がわからなくても多少は理解できるだろうと考えてたんですが……。僕は無知で、とても傲慢でした。言葉を超えた歌もあるんですね」

 やや大袈裟な感激ぶりだが、真面目で感情移入しやすい性格なのだろう。

「どんな意味なんでしょう?」

 店主が蓄音機から丁寧な手つきでレコードを外しながら、尋ねた。「詩の概要を尋ねるというのも、無粋ですが」

「私も英訳を教えてもらっただけだが   」

 正造は胸ポケットから手帳を取り出し、挟んであったメモ用紙を見た。「季節だけが巡り、歳月だけを重ねても、あなたと約束したとおり、私は待っています   待ち続けます   そんな意味だそうだ」

「待っています……ですか。『帰ってきて』と願わないんですか?」

「ないな。身勝手で世界のどこを放浪してるのかもわからない男に『帰ってきて』と願っても無駄だが、ただ『待っています』とだけ繰り返している」

「やはり『無駄だから』でしょう」

 各務が皮肉そうな声を挟んだ。相変わらずの下目遣いだ。「ペール・ギュントは誠実さの欠片もない男だし、そもそもソルヴェイグと出会うまでに結婚寸前までいった挙げ句、飽きて捨てた女性が二人もいる。それを幸か不幸かソルヴェイグは知りませんし、純真だから、いわば戦争に行った兵士を待つようなつもりだったんじゃないでしょうかね。できるのは『待つ』ことだけだと自分に言い聞かせて」

「ですが   」

 瀬ノ尾が眼鏡を掛け直しながら反論した。「だからこそ、最後での救いがより際立つのではないでしょうか。不誠実で身勝手な最低の男でも、待っていてくれる女性がいて、その女性の子守歌を聞きながら臨終を迎える   どんな人にも救いはあると」

「誠実な正義漢なのに、戦場であっけなく死んでしまう兵士に救いはあるのでしょうかね」

「それは……。歌劇の内容には関係ないでしょう」

「多少は関係ありますよ。ペールは希臘ギリシヤ 独立戦争で土耳古トルコ 支援に投資してますから」

「こじつけじゃないですか。風が吹けば桶屋が儲かる式の」

 拳を握り、片方の眉を吊り上げた瀬ノ尾が、そこで、はたと気づいたように手を下ろした。「もしかして、わざと議論をふっかけてませんか? わざと怒らせようとしている   そうでしょう? 先週、松井須磨子を誹謗するようなことを仰って、僕が怒って反論したときと同じで……」

「性分なんです」

 各務は皮肉そうな微笑のまま、珈琲を飲んでいる。「天の邪鬼な性格なので、水を掛けたり水を差したり、水を向けたり水増ししたりするのが好きなんです」

「……水がお好きなんですね」

 あんぐりと口を開けた瀬ノ尾が、ついに吹き出した。「愉快な人ですね」

「他人を不愉快にさせる行為も多いですが」

「不愉快にさせるのを怖れていたら議論はできません」

 涙が出るほど笑った瀬ノ尾が、またしても眼鏡を拭きながら、首を振った。「たしかに感動に水を差されたような不快感はありましたが、おかげで冷静さを取り戻しました。長い歌劇中の一つの場面の歌でしかなくても、心を揺さぶる歌だったわけです。もともとは『レーゼドラマ』   上演目的ではなく、戯曲の形をした小説のようなものとして書かれた作品で、上演は困難だと言われていたのに、作曲したグリーグや、劇中で歌唱した役者たちや、演出家などの大勢の才能によって素晴らしい歌劇として上演されたわけです。これは『舞台』の素晴らしい可能性の証明ではないでしょうか。ただ本を読むより、大きな感動を味わえる」

「可能性はあると思いますが……それは君が言ったように音楽や役者や演出などの歯車が上手に噛み合った結果でしょう。逆から言えば一つでも歯車が外れたら、目も当てられない駄作になってしまう危険性と背中合わせですが   」

 冷静に返した各務の視線が、正造に向けられた。「草薙さんのご意見は?」

「君は、水を向けるのも好きだったな」

 正造は苦笑しつつも、真面目に答えることにした。「そうだな……。私が観劇したのは、たまたま滞在中に上演していたからで、何の知識も先入観もなく、言葉さえわからないという、ある意味で最も純粋な観客であったかもしれない。そして感動したし、知人に英訳もしてもらった。曲の幾つかも心に残ったからレコードも購入したが   これが、もしもシェイクスピアの『リア王』や『ハムレット』だったらどうかな。先に戯曲を読み、私なりのイメージもできあがっている。そのイメージよりも良いものであれば感動するだろうし、残念な出来だったら、感動とは程遠いものになってしまうやもしれない。私が『ペール・ギュント』を観た劇場には、すでに戯曲を読んでイメージを膨らませていた観客もいただろうと思う。その人たちがどう感じたか   大喝采だったから、不満を持った観客は稀だったろうが、皆無だったとは言えないだろう」

「ああ、それは言えますね」

 それまで置物のように黙っていた店主が、さりげなく口を開いた。「たとえば『復活』   私は先に内うち 田だ 魯ろ 庵あん の翻訳した原作を読んでいましたので、芸術座の舞台を最初に観たときは、正直に申し上げて、かなり不満でした。悲恋ばかりに焦点を当てすぎていて、もっと大きな、偽善に満ちた社会への批判がないがしろになっていると感じてしまったからです。でも公演は大好評でしたし、『カチューシャの唄』も大流行しました。これもまた正直に申し上げれば、下手な素人の歌だと呆れましたが」

「……手厳しい批評ですね」

「そうですか? 雲泥の差じゃないですか。今の『ソルヴェイグの歌』と『カチューシャの唄』は   前者は研鑽を積んだオペラ歌手の歌、後者は素人の歌。でもこれが流行してしまうのが、今の日本なんですよ。大衆はわかりやすい娯楽を求めているのであって、高尚な芸術を求めているのではない」

 声も表情も穏やかだが、厳しい持論を語った店長が、そこで一息つくと、「ですが」と微笑んだ。「『カチューシャの唄』は、舞台を観ながら聴くと、心に響くものもあったんですよ。須磨子の仕草や表情が、歌に足りない情感を補っていたのでしょう。レコードは歌のみで表情も仕草も見えません。そのあたりが、瀬ノ尾さんの仰る『舞台の可能性』ではないでしょうか?」

「……あ……そう、そのとおりです」

 瀬ノ尾が意気込んで身を乗り出した。「僕は残念ながら『復活』の舞台は観られませんでしたが、舞台のほうがレコードよりも良かったという店長さんのお話は、納得できます。たぶん、この『ソルヴェイグの歌』も、舞台を観ながら聴いたほうがもっと感動したのではないでしょうか」

「そうかもしれないな」

 正造はうなずいた。「だからレコードを買ったし、聴きながら舞台で歌っている場面を思い出していたよ」

「羨ましいです」

 瀬ノ尾が大きな溜息をついた。「店長さんも草薙さんも実際に舞台をご覧になっている。残念ながら僕は『復活』の公演時には田舎にいたし、ましてや諾威に渡航できるわけもない。ですからただ羨ましいし、お二人の話から想像することしかできませんが……だからこそ、今度は僕が書いた芝居を、いつか誰かが、こんな風に思い出語りにしてくれる日が来るのを目標にしたいのです。レコードで聴いただけの人に、『舞台を直に観なければ神髄がわからない』と自慢できるような芝居を」

 両手を握りしめ、瀬ノ尾が決意を込めて語る声は熱かった。その後も、あれこれ芝居について熱弁を振るった瀬ノ尾は、閉店時刻が迫った十時前にもう一度、『ソルヴェイグの歌』を聴きたいと希望し、店長が再びかけた唄の余韻の中でインバネスを羽織ってから、深々と頭を下げた。

「今日は貴重な機会をいただき、まことにありがとうございました。素晴らしい音楽を拝聴できましたし、浅学な若輩でしかない僕の、おこがましい持論を親身になって聴いていただけて」

「いや、こちらこそ楽しかったよ」

 正造がそう答え、各務も微笑んでうなずき、

「またのお越しをお待ちしております」

 店長が笑顔で送りだした。下駄を鳴らして瀬ノ尾が走り去り、正造と各務はのんびりと身支度を調えてから外へ出た。

「風変わりな鑑賞会だったな」

 そんな感想を洩らしながら、正造は街を見回した。市電のチンチンというベルの警笛があちこちから聞こえ、人通りも多い。吐く息が白く凍えそうな寒さだが、雪も雨も降りそうもなく、澄んだ夜空には星と弦月が輝いている。

「まさにミッドナイト・ブルーですね」

 夜空を見上げながら、各務がそんな英語を口にした。「日本の色名では、濃こ 藍あい ですか」

「そういえば、『真ま 夜よ 中なか 紺こん 』と翻訳した小説を読んだ記憶があるな」

「……『紺こん 』ですか。直訳すれば『真夜中青』なのに『紺』と訳したわけですか。たしかに青よりも紺のほうが夜を想像しやすい。何の小説ですか」

「なんだったかな。探偵小説なのは確かだが、ポーか、ニコラス・カーターか……最近、手当たり次第に読んでいるから」

「探偵小説がお好きなんですか」

「無機質なパズルを解くより人間味がある」

「……それは当たり前でしょう。人間が犯す犯罪の真相究明を小説にしたわけですから」

 おかしそうに笑った各務が、ふと思い出したように尋ねた。「停車場の幽霊に興味をお持ちになったのも、探偵小説がお好きだったからですか」

「そうかもしれん。幽霊にも動機があると思ったわけだ」

「動機?」

「目的、あるいは因果関係というべきかもしれんが   たとえば、日本の怪談では、恨みが多い。怨霊という言葉さえあるほどだ。殺された   殺されなくても、生き続けられないほどの苦境に追いやられて死んだり、自殺した被害者が幽霊となって甦って加害者に祟たた る。『四谷怪談』などはその典型例だな。あるいは逆に、守護霊のように息子を守る母のような幽霊もいれば、地縛霊のように自分が死んだことを認められずに、死んだ場所に留まっている幽霊もいる。あるいは、『菊花の約ちぎり 』のように再会の約束を果たすために、『人一日に千里をゆくことあたはず。魂よく一日に千里をもゆく』からと遠い地で自刃し、幽霊になって会いに行く話もある」

「……千里の道を一日で行くために自殺して幽霊になったんですか」

 各務は驚いたようだ。微笑が消え、当惑したような表情のせいか、西洋の少年のようにも見える。「それは……動機としては変わってますね」

「現代なら汽車で間に合いそうだが、戦国時代だからな。信義を貫くために切腹する武士も多かったし、牢に監禁されて命の危険もあったから、どうせ死ぬ運命ならと開き直ったのかもしれん」

「ですが、幽霊の移動速度を、いわば『特技』として肯定的に捉えているのが画期的です。古来からある怪談ですか?」

 古典には詳しくないのだと各務が苦笑した。「かといって亜米利加の古典   まだ百四十年程度の歴史しかないですが、僕は独立戦争当時のこともろくに知らないので……要するに中途半端なんですよ」

「私も中途半端な知識しかないが……。上田秋成の『雨月物語』に収められているから発表されたのは江戸時代だが、昔から中国や日本で伝承されていた物語を作り直したものらしい」

「『雨月物語』の名前だけは聞いたことがあります。他にも画期的な動機の幽霊話はありますか?」

「画期的……なのかどうかはともかく、『ペール・ギュント』のソルヴェイグのように、帰らぬ夫を待ち続けて幽霊になる妻の物語もあるな。『浅あさ 茅じ が宿やど 』という題だが」

 正造はかすかに自嘲気味に笑ってから、話題に戻った。「ともかく、幽霊となって出現するには動機がありそうなものなのに、あの停車場の幽霊の動機は、まったく不明だ。地縛霊に近いような気もするが、自分は幽霊だと自己紹介するものかね?」

「たしかに……変ですが……」

 ふたたび微笑を浮かべつつ、各務が小首を傾げた。「本当に幽霊だとお思いですか? いえ、あなたは幽霊の存在を信じてらっしゃるわけですか?」

「その判断はしていない。幽霊が存在するか否かは、『悪魔の証明』と同じで、証明不可能だろう。停車場の幽霊も、本当に幽霊なのか、生きている者が幽霊を騙っているのかは、現時点で考えていない。『なぜ停車場に出現するのか』だけを考えている」

「分析的ですね。探偵小説がお好きなだけある。それで、あなたの推理は?」

「まだ何も。残念ながら、僕にはC・オーギュスト・デュパンのような推理能力はなさそうだ」

 さりげなく答えてから、正造は、駐車中のT型フォードを見やった。「唐突だが、君に双子の兄弟はいるかい?」

「本当に唐突ですね」

 各務が微笑したまま、軽く溜息をつく。折しも、汽笛が遠くから響き、貨物列車を牽引した蒸気機関車が汐留停車場へと走っていった。レール音とも地響きともつかぬ騒音が静まってから、煙をなおも眼で追いながら各務が口を開いた。「僕も唐突な話を。次の土曜日は三月一日ですね」

「……それが何か?」

「万まん 世せい 橋ばし 停車場と東京駅の間の電車線が落成するんですよ。すなわち、東京駅から直接、中央線に乗り入れられることになります。毎年、臨時で運行する小こ 金がね 井い 桜ざくら の観桜列車に間に合ったようですね」

 その瞬間、正造の脳裏に吹雪のように舞い散る桜の花びらが甦った。





     5





 玉川上水の堤に沿った桜並木から淡く色づいた花びらが風に舞う。歌うた 川がわ 広ひろ 重しげ の錦絵『藤三十六景武蔵小金井』に勝るとも劣らない美しい光景だ。車窓から見えるその景色に、臨時列車の乗客たちは皆、窓に頬を擦り寄せんばかりに貼りつき、口々に歓声をあげていた

(なんて素敵なお話なんでしょう。汽車に揺られてお花見に行くなんて。次は私も連れて行っていただけませんか)

(汽車ではなく、電車だよ。しかも、電車には一等席がない。二等か三等席だけだ)

(二等席でも充分ですよ。市電も電車ですから慣れてますし、乗客全員がお花見客だなんて楽しそうじゃないですか。それに、あなたがいらっしゃったときも二等席だったんでしょう?)

(まあ、そうだが……じゃあ、来年の春に見に行こうか。たしか東京駅まで乗り入れる工事も、その頃には終わるはずだ)

(約束ですよ? 私、腕によりを掛けてお弁当を作りますから)

 嬉しそうに微笑み、半年も先の春に思いを馳せていた桜子の顔は、車窓から見た桜の景色よりも美しかった   ……。

(   約束ですよ?)

 空耳だと頭ではわかっていても、心の中で桜子の声が聞こえる。

(約束するよ)

 正造はそう答えたはずだ。しかし、その約束は果たせそうもない。

 どうやって果たせというのだ? 春が来る前に   去年の秋に、君は逝ってしまったではないか。私を置いて、君はこの世から消えてしまったではないか。

 君の年老いた両親には逆縁の不孝をし、私を絶望の底に突き落とした。どうせなら、私にも西班牙感冒を移してくれれば良かったのに





「……桜子……」

「草薙さん……?」

「……私は歩き回ったんだよ……幾晩も……」

「子爵、草薙子爵」

「……雪が降る夜に、霜が降りた未明にも……。昼間も人混みの中をマスクもせず無闇矢鱈と歩き回った……。西班牙感冒が移るのを期待して……。それなのに、罹患しなかった。軍医の山下には『馬鹿なことはしないでください』と叱られたよ。そのとおり、馬鹿だよ、私は」

 正造は笑った。「君が逝くとわかっていたら、マスクなどせずに看病すれば良かったんだ」

「……回復すると信じていたから、マスクをして看病なさったんでしょう?」

「信じていたさ。君が逝ってしまう前までは。だが……今はただ虚しいだけだ。なぜ君だけ一人で逝ってしまったんだ? なぜ   」

 なぜ、と繰り返すうちに、やり場のない怒りが込み上げてきた。拳を握りしめ、正造は怒鳴った。「私も一緒に死にたかったのに!」

 その刹那   視界がわずかに明るくなった。

 ほのかな灯りと闇の中に、浮かんでいるのは桜子の顔ではなかった。端整な青年の顔   鳶色の目と髪の持ち主は、たしか各務賢治……。

「やっと気がつきましたか」

 端整な顔が微笑んだ。皮肉そうな微笑ではなく、安堵したような笑みだ。「医者の話では、過労ではないかと。熱もそのうち下がるだろうとのことです」

「……医者?」

「あいにく軍医ではなく、飲んだくれの町医者ですが、診察した患者数だけは多いので、腕は藪やぶ より少しは上でしょう。この裏の宿屋に住んでいて、近所ではなにかと重宝されてるんですよ」

 右手の親指を立て、背後を指さす。ここはどこだろう? 暗くてよくわからないが、駒込の屋敷でないのは確かだ。枕もベッドの布団も硬い。掛け布団ではなく毛布のみだ。ヘッドボードも鉄パイプの枠だから病院のベッドのようだが……。正造が手探りで白いペンキの剥げかけたパイプの枠を触っていると、

「元は病院のベッドですよ」

 各務が笑った。「古道具屋で見つけたんです。どこかの病院が改装するときに仕入れてきたとかで、他にもキャビネットや洗面器や   おかげで格安で丁度品が揃いました」

「……では、君の部屋なのか」

「ええ。ここは銀座です。いちおう煉瓦街にありますが、裏通りです。過当競争で経営が悪化した宿屋がアパートとして部屋を貸し出したので、飛びつきました。馬車や自動車の駐車場もありますし、東京の探索には便利な住まいですよ」

「……銀座だからな。煉瓦街が整備される前は新橋停車場で乗降する客を泊める宿屋街だったし、今もまだ裏通りには名残がある」

 正造はまだ朦朧とした頭に手をやった。氷嚢のような手触りだ。

「宿屋なので氷ひ 室むろ もあります」

 各務の手が落ちそうな氷嚢を押さえた。「まだ横になってらしたほうがいいですよ」

「今……何時だ?」

 無意識に胸ポケットを探ろうとして、上着を着ていないことに気づいた。ベストも着ていない。シャツのみだ。

「怪談でお馴染みの、草木も眠る丑三つ時です」

 また各務が笑い、自分の胸ポケットから懐中時計を取り出した。「正確には午前二時四十三分です。お屋敷には電話をしておきましたから、ご安心を。さすがに子爵様ですね。交換手に『駒込の草薙子爵邸に緊急で連絡をしたい』と頼んだら、すんなり繋いでくれましたよ。女中頭の千代さんに『過労で倒れたので、一晩、安静にしていただきます』とお伝えしました」

「千代は何と?」

「もちろん心配してらっしゃいましたので、朝になったらまた電話するとお約束しておきましたが   千代さんの苗字は?」

「……苗字は……安やす 原はら だな。苗字を呼ぶことなどめったにないから忘れそうだ」

「執事はいらっしゃらないんですか?」

「いない。父の代から千代が家事の全権を掌握していたし、仕事の面では会社に秘書がいる」

「お雇いになる気は?」

「そうだな……。千代の眼鏡にかなう逸材がいれば」

「可能性は?」

「これまで千代が認めたのは、たった一人だ。女性だが」

「……もしかして、奥様ですか?」

「正解だ」

 自嘲気味に笑いながら正造は、眼だけ動かして周囲を見回した。やっと暗闇に眼が慣れたので、ほのかな灯りが各務の座っている椅子の横、小さな円卓に載った燭台の炎だとわかる。燭台の横にはトランプの札   占いか一人遊びの最中らしい。「君は千代の面接を受ける度胸はあるかね?」

「……あります。でも、また屋敷に籠もる生活に戻る前に、東京観光を飽きるまで楽しみたくもあります」

「屋敷に籠もる必要はないが」

「留守番でもあるんですよ。緊急時に必ず連絡が取れる場所にいるのが、執事の最も重要な役目です」

「……そうなのか」

「でなければ必要がないでしょう。千代さんと他の女中たちが家事の一切をしてくれて、家計の管理もおそらく千代さん任せでしょう? 運転手は車夫がいる。あの松の木の見事な枝振りから見て、園丁もいるんでしょう? 力仕事もこの二人で足りるでしょう。しかも、通訳が必要なご家族もいない。勉強の手伝いをするようなお子さんもいない。あなたは仕事で朝から出かけて横浜の会社で過ごし、帰宅するのは夜。執事として留守番以外に何の仕事をすればいいんでしょう? 千代さんたちが掃除した後をついてまわって粗探しをすることですか? 家計簿の記載ミスがないか、園丁たちがサボっていないか、鵜の目鷹の目でチェックすることですか?」

 畳みかけるような質問に、正造は返答に詰まった。これまで執事を雇わなかったのは、いなくても困らなかったからだ。もしも雇ったとしても、各務のいうとおり、留守番以外に仕事がない。

「あなたに必要なのは執事ではないでしょう」

 各務が軽く肩をすくめ、円卓のトランプを手でかき集めると、慣れた手つきでシャッフルし始めた。「必要なのは、雇用人ではなく   」

「桜子だ 」

 正造は語気を強めて答え、同時に氷嚢を払いのけるようにして、上半身を起こした。「桜子さえいればいいんだ」

「違います。新しい家族ですよ」

 各務が片方の眉を吊り上げ、カードを円卓に置いてから走り寄ってきた。「家族でなければ恋人でもいい」

「恋人? そんなものは要らない。必要なのは桜子だ」

「桜子さんは亡くなったんですよ」

 幼子に言い聞かせるような口調の各務が、正造の肩を掴んでベッドに押し戻そうとした。正造はその手をも払いのけるようにして床に足を降ろした。そのまま立ち上がろうとしたが、視界が激しく揺れた。立ちくらみか   仕方なくベッドに腰を降ろすと、各務の呆れたような声が聞こえた。「だから過労だと言ったでしょうに。あなたは倒れたんですよ。突然、僕の目の前で」

「……いつ? どこで?」

「カフェー『夕汐』を出て立ち話をしている途中でした。店主はまだ閉店準備で残っていたので、二人がかりで僕の自動車に乗せて、ここに運び、医者を呼んで診てもらったんですよ」

「……カフェーを出てから……か……」

 正造は頭を押さえて目眩を堪えながら記憶を辿ろうとしてみた。各務と立ち話をした記憶はある。ミッドナイト・ブルー色の夜空を見上げた記憶もある。探偵小説の話、幽霊の話   それから……各務に尋ねたのだ。双子の兄弟はいるのか、と   各務は何と答えたのだろう?

 各務の声が聞こえた。

「次の土曜日に中央線が直接、東京駅に乗り入れることになるという話をしている途中でした」

「……中央線……」

「観桜列車の運行に間に合った、と僕が言ったとたん、表情が変わりました。そして倒れました。崩れ落ちるように」

「……観桜列車……」

 正造は両手で頭を抱えた。それでも脳裏にはまた桜子の声が繰り返し繰り返し甦る。

 約束ですよ   約束ですよ   約束ですよ   蓄音機の針が飛んだレコードのように止まりそうもない。

「草薙さん?」

 各務の呼びかけを無視して正造は立ち上がった。ぐらつく頭を手で押さえつつ、必死に歩こうとした。出口はどこだろう? 「安静にしてください。体調が悪いのに外へ出たら、いつまでも回復しませんよ」

「……回復しなくていい」

 正造はうわごとのようにつぶやきながら、足を進めようとした。「私は西班牙感冒に罹かか りたいのだ」

「……今、何と……?」

「私は西班牙感冒に罹って死にたいのだ 」

「馬鹿なことを……。気は確かですか?」

「確かだとも。なぜ桜子だけが罹って私が罹らなかったのだ? そうだ、島村抱月の後を追って命を絶った松井須磨子の気持ちは私はわかる。なぜ抱月だけが罹って須磨子は罹らなかったのだ? 死は等しく万人に訪れるなどというが、そんなものは戯たわ 言ごと だ。なぜ桜子だけが逝き、私は残された? なぜ一緒に死ななかったのだ?」

 堰を切ったかのように、正造は心の奥に溜まっていた言葉を吐き出した。桜子が亡くなってから、草薙家当主として、失意の底から懸命に這い上がろうとしてきた。前向きになろうと気持ちを奮い立たせ、未来を見つめ、仕事に没頭した。そんな半年間に澱のように溜まり続けた後悔、理不尽さへの憤懣、強烈な怒り、やるせない思い   そして答えのない問いでもあった。

 なぜ   ?

 なぜ、世界中で西班牙感冒が流行し、日本だけでも何十万人もが亡くなっているのに、なぜ西班牙感冒は桜子を襲い、正造を襲わなかったのだ? 餌食が欲しいのなら、喜んで我が身を差し出すのに

「……死は等しく万人に訪れますよ」

 穏やかな声が聞こえた。「それは真理です。ただ、訪れる『時』が人によって異なるだけです」

「詭き 弁べん だ」

「違います。万人に一斉に訪れたら、その瞬間に、全世界の人間は消滅します。また、訪れるまで誰一人死なないとしたら、世界は人で溢れかえって立錐の余地もなくなり、作物を栽培する土地さえなくなってしまうではないですか」

「……な…にを……」

 馬鹿馬鹿しいと思いつつも、人間でびっしり埋まった広大な大地を想像し、正造が唖然としていると、

「突飛すぎますね」

 笑い声が聞こえた。「でも、なぜ西班牙感冒に罹る者と罹らない者がいるのかは、医者でもわからないし、西班牙感冒に罹って命を落とす医者もいると言っても無意味でしょう。それに、僕は『死にたい』と願う者を止める気もありません」

「……そうか。止めないのならば、黙って行かせてくれ」

「あなたは、今は死ねませんよ。西班牙感冒では」

 各務の声に皮肉さが戻ったように感じた。「この部屋から出ていきたいのなら、行けばいい。僕は止めません。でも、その体調の悪さでは階段を降りることもできないでしょう。仮に一階まで降りられたとしても、ここは宿屋ですから、玄関前の帳場には夜勤がいます。つい数時間前に担ぎ込まれて医者の往診まで頼んだ人を黙って寒空の下に出すとは思えませんが、それでも無理矢理、外に出るのに成功したと仮定しましょうか。それでもあなたは西班牙感冒には罹らないでしょう。罹る前に倒れるからです。そして、ここは銀座です。夜通し開いているカフェーもある。巡回する警官もいます。それから   」

「……もういい」

 正造は仕方なく右手だけ動かして制した。「君は水増しするのも好きだったな。夜明けまで喋り続けるつもりか?」

「ご記憶いただいて、光栄です。でも、厳密には水増ししているのではないですよ。ただ、あなたが今日、西班牙感冒に罹らない理由を例示しているだけです。あなたが納得するまで続けるつもりでしたが、納得していただけましたか?」

「……納得はしないが、もういい。疲れたから眠る」

 もはや声を出す気力も残っていない。正造は横になり、重い頭を枕に預けた。

「だから『過労です』と言ったでしょうに」

 笑い声とともに、毛布が肩に掛けられるのを感じた。「ソルヴェイグのように子守歌でも歌ってさしあげたいところですが、あいにく子守歌は一曲もまともに憶えていないんですよ。せめてお休みのキスでも」

 鼻を何か髪の毛のようなものが掠めたかに思えた刹那、唇に柔らかな感触を感じたが、睡魔に襲われていた正造には、夢かうつつか判断できなかった。泥のように重い睡魔だったが、眠りの底に落ちたせいか、悪夢にうなされることもなかった。





     6





 美味しそうな匂いで目が覚めたときには、窓からの陽射しでまぶしいほどだった。

「ブランチはいかがですか?」

 料理を載せたトレーを手にした各務が微笑んでいた。「朝食と昼食を兼ねた食事のことですが……亜米利加英語でしたか?」

「いや……英国でも聞いたことがある。たしか十時までは朝食扱いで……」

 まぶしさに寝ぼけ眼を瞬きながら答えた正造は、毛布を撥ね除けるようにして上半身を起こした。「今、何時だ?」

「十一時ちょうどです。ブランチの時間ですから」

「……十一時」

 今日は二月二十六日、水曜日だ。祝祭日でもない平日だから、すでに横浜の会社では業務が始まっているだろう。

「会社には九時きっかりに電話で連絡しておきました。千代さんに秘書の栗田さんのお名前をお伺いして」

 ベッド横のテーブルにトレーを置きながら、各務が当たり前のように説明した。「栗田さんからご助言をいただきました。『社長は見張っていないと、すぐにでも働こうとしますから、眼を離さないように』だそうです。千代さんも似たようなことを仰ってました。『半年分の睡眠と休養を取るまで、押さえつけてでもベッドから出さないでくださいな』だそうです」

「……よほど信用がないんだな」

 正造は苦笑しつつも、香ばしい湯気が鼻孔をくすぐるのを感じて、トレーに眼をやった。深皿はポタージュかシチューのようなとろみのある汁が入っている。グラスの中身は淡い黄色のジュースだ。

「レモネードとポリッジ   西洋の粥です」

「ブランチは二食分兼用だから、もっとボリュームのあるものではなかったか?」

「あなたは病人なんですよ。まずは消化の良い食事から」

 各務が呆れたような眼でにらみながら、湯で濡らした熱いタオルを差し出した。「これで手を拭いてください。ついでに鏡をご覧になりますか? これまで夜にお会いすることが多かったので、うかつにも見逃してしまいましたが、目の下には隈ができていますし、陽射しの下で見れば誰もが『医者をお呼びしましょうか?』と尋ねそうな顔です」

「そうかね? これまで誰も尋ねなかったが」

「あなたの周囲にいる人たちは、尋ねても無駄だとわかっていたからでしょう。千代さんも栗田さんも   それに、倒れる前に、ご自分で医者に行く分別もお持ちのはずだ、と」

「分別ねえ……」

 皮肉を聞き流し、正造はタオルで手を拭いてから、まずレモネードのグラスを手に取り、飲んでみた。甘すぎるほど甘かったが、重症の風邪なら味も感じないはずだから、その程度に回復しているのだろうと素人判断をしてみる。レモンの香りも清々しい。「……亜米利加のレモネードだな。ソーダを入れない。君の母上の直伝か」

「……博識と思考力は回復しているようですね。母の生まれ故郷では、子供がお小遣いを稼ぐのに自家製のレモネードを売ることもあるとかで、小学生の頃に作り方を教わりました」

「子供の頃から自力で小遣い稼ぎか。さすが開拓者が築いた国だな。ポリッジも母上直伝か?」

「僕が風邪を引いたときの特別料理でした。日本では燕麦オートミール は馬の飼料用しかないとかで……昔も今も輸入食品店で買うしかないんですよ。まあ、ここは銀座ですし、博品館勧かん 工こう 場ば もありますから、そのポリッジの材料は容易に入手できました」

「だから特別料理なのか」

 正造はスプーンを手に取り、湯気のたつポリッジを一匙すくい、口に運んでみた。甘くはなく薄い塩味だ。生クリームかバターのような乳製品も少量入っている。「旨いな。そういえば、弥生町   私の屋敷の近所だが、輸入食材店がある。帝大の農学部にも近いからだと思うが」

「帝大の近所……。店があるのだけは聞いた記憶があります。前の勤務先で、女中たちが輸入食品店の話をしていたときに」

「聞いただけか」

「行ってみたかったのですが、執事でしたから」

「休日は? 定休日もなかったのか?」

「毎週木曜日の午後が休みでしたが、あまり外出せずに読書をして過ごすことが多かったので」

「どんな本を?」

「日本橋の丸善で適当に、その日の気分で見繕って   大半が洋書でしたが」

 各務が背後の壁を指さした。大きな書棚には横文字のタイトルが並んでいる。英語のようだが、トルストイもあればデュマの『モンテ・クリスト伯』が何巻も並んでいたりと、英語圏ではない国の作家の名前も散見できるから、英訳したものも多そうだ。ジャンルは小説から経済学、哲学など多岐にわたっているし、正造が知らない著者も多い。

 戯曲もある。シェイクスピアはもちろん、イプセンの『ペール・ギュント』に『人形の家』、エドモン・ロスタンの『シラノ・ド・ベルジュラック』

「ロスタンも亡くなったな。昨年の冬に……」

 そんな言葉が正造の口をついて出た。西班牙感冒で、という言葉を呑み込んだが、

「そうですね」

 うなずく各務の眼は、それもわかっているようだった。「訃報を聞いてから買ったんですよ。もっと前に読んでおくべきだったと後悔しました」

「……そうか……」

 正造はさりげなく相槌を打ってから、書棚に視線を戻した。古そうな書籍もある。亜米利加建築家協会(American Institute of Architects)発行   建築の専門書のようだ。他の古そうな書籍は知らないタイトルや著者名ばかりだったが、フランク・ロイド・ライトの名前だけは正造も知っていた。帝国ホテルの新館を建築するため、亜米利加から来日中の建築家ではないか。「建築を学んだのか」

「古い書籍は父の遺品ですよ。父は建築学を学びに亜米利加に留学したので」

「だが新しい書籍もある。君は?」

「いちおう工学部の造家学科で学び、学位も得ましたが   今のところ趣味に毛が生えた程度ですね」

 各務は軽く肩を竦めただけだった。「もしも、お読みになりたい本があれば、お貸ししますよ。でも、まずはそのポリッジを召し上がってください。冷めないうちに」

「……いただくよ」

 正造は食事を続けることにした。各務は監視する気はないのか、さっさと円卓に座ると、トランプをめくり始めている。

 明るい陽射しの中であらためて部屋を見回すと、洋間ではなく、畳敷きの和室だった。八畳間だろうか。畳の上に絨毯を敷いてから、家具を置いている。

 もとは病院で使用していたパイプ製のベッド   今、正造が食事をしている小さなテーブルもパイプ製の脚だから、同じく病院からの払い下げだろうか。薬品を入れるのにちょうど良さそうな磨す り硝子の扉がついた戸棚。白い琺ほう 瑯ろう 引きの洗面器には食器が幾つか積まれていて、その横には茶色の西洋鍋を乗せた焜こん 炉ろ も置いてある。あの鍋でこのポリッジを煮たのだろうか。

 壁は漆喰で、最新式のスチーム暖房らしきパイプの上に濡れたタオルが掛けられている。襖障子の押し入れもあり、和洋折衷の部屋だが、それなりに生活感があるせいか、居心地が良かった。

 各務は黙ってトランプをしている。何のゲームだろう?

「君のトランプにはAエース があるかい?」

 正造はそんな声をかけてみた。

「……ありますが……。何かの比喩ですか?」

 手を止めて振り向いた各務は怪訝そうだ。

「文字どおりの意味だ。まあ亜米利加ならば、それが当たり前だろう。ジャックとクイーンとキングもあるわけだ」

「ない国もあるんですか?」

「仏蘭西フランス はない。『A』ではなく『1』だし、ジャックではなくヴァレ   従者、クイーンではなく仏蘭西語のダーム   女王、キングではなく仏蘭西語のロワ   王だ」

「初耳です。では、角の文字も、『A、J、Q、K』ではないんですか?」

「『1、V、D、R』になる。それに仏蘭西のほうが先で、欧米は仏蘭西から伝わったものを英語に変化させたと聞いた」

「仏蘭西のほうが先だったんですか」

「起源は欧米ではなく、埃及エジプト だとか印度インド だとか、様々な説があるし、欧州に伝来したときも、国によって広まる過程で変化している。たとえば独逸ドイツ のトランプにクイーンはいない。ジャックよりも少し高級な従者になっている」

「絵札は男だけですか」

「そうらしい。西班牙や伊太利亜イタリア の絵札も男だけだ。クイーンの代わりに馬。さらに西班牙には『10 』がない。一から九までと絵札三枚だけだ。伊太利亜はさらに少なくて『8』も『9』もない」

「……ということは、西班牙のカードは四十八枚ですか。伊太利亜は四十枚?」

「そうだ。君のカードにジョーカーはあるか?」

「いえ……」

「では、亜米利加ではなく英国からの輸入品だな。あるいはそれを模して作られた日本製」

「……さすがですね」

 各務が感嘆したように首を振った。「僕も、ジョーカーが亜米利加で作られた特別なカードだとは知っていましたが……これは英国からの輸入品です」

「亜米利加からの輸入品は置いてない店だったのか」

「さあ、どうでしょう? 買ったのは母ですから。もう二十年ほど前に」

「……そうか……」

 つまりは亡き母の形見も同然なのだと気づき、正造は口をつぐんだ。知識をひけらかしていた自分が恥ずかしくもある。各務にとっては、「母が買ったトランプ」であって、どこの国のトランプかは些細な違いでしかないだろう。

 よく見れば、かなり使い古したトランプのようだ。手垢で黒ずみ、模様にも擦り傷がついている。それでも各務にとっては宝物なのだろう。

「残念ながら日本の歌か 留る 多た は不得意なんですよ」

 各務がカードを揃えながら、冗談めかして笑った。「百人一首は一枚も憶えていませんし、百枚百首もの和歌を憶えるなんて僕には不可能です。いろは歌留多なら、四十七枚ですから、なんとかなります。実は母が、あの歌留多で日本語を勉強したとか。そのせいか、ことわざだけは、やけに詳しかったのを憶えています。薬を飲ませるときは『良薬口に苦し』とかね」

 苦そうに顔をしかめてみせた各務の仕草に、正造も笑った。

「では、君のお母上は日本語の読み書きもできたのか」

「ひらがなとカタカナだけです。それでもアルファベットは二十六文字ですから、倍以上ですね。母は『大文字と小文字を別の文字だと考えれば五十二文字だから、ひらがなの四十八文字より多いわ』なんて笑ってましたが、『蝶々』が『てふてふ』なのに『東京』が『とうきやう』と書く仮名遣いに混乱してましたし、漢字は輪を掛けて難しかったようです。漢数字と、父と僕の名前の漢字だけは憶えたようですが」

「さぞかし努力なさったんだろう」

 正造は素直に感心していた。仕事であれ私事であれ、旅行ならば、帰国するまでの期限つきの滞在でしかないが、国際結婚となれば異国の地に骨を埋める覚悟が必要だ。慣れない言葉を話すだけでなく読み書きまで勉強したのか。二十六文字のアルファベットの国から、いろは四十七文字、「ん」を加えれば四十八文字の国へ   たしかに大文字と小文字を別にすれば五十二文字と言えなくもないが……。

(……52 - 48 = 4……)

 ふと、そんな引き算を無意識にした正造は、各務の手にしたトランプに視線を向けた。

(……4……)

「どうかしましたか?」

 各務が怪訝そうに首を傾げ、トランプを置いて立ち上がった。「具合が悪くなったのなら……」

「いや、違う。暗号を考えていたんだ」

「……暗号?」

「いろは唄は知ってるだろう?」

「色は匂へど散りぬるを……ですね。母が感心してましたよ。完全パーフェクト パングラム   四十七文字全部を一回だけ使った文章で、しかも意味の深い詩になっている、と」

「あれも暗号だと昔から言われてるのは知ってるか? 七五調で区切らずに、七文字ごとに区切って、最後の文字を並べると『とかなくてしす』   『咎とが 無くて死す』となる。『仮名手本忠臣蔵』の『仮名手本』は、赤穂浪士が四十七人だったことだけでなく、この暗号も含んでいるのではないか、という説まである」

「それも初耳です。ちょっと待ってください」

 各務が指折り数えながら、いろはを暗唱しはじめた。「いろはにほへ『と』、ちりぬるをわ『か』、よたれそつね『な』、らむうゐのお『く』、やまけふこえ『て』、あさきゆめみ『し』、ゑひもせ『す』   たしかに『咎無くて死す』になりますね。まるで、いろは唄の作者が、罪もないのに殺される運命を予見していたかのようですね」

 大発見をしたような驚きぶりなので、本当に知らなかったらしい。

「作者は不明だから、意図したものなのか、単なる偶然なのかも不明だがね。唄も無常観を歌ったような内容だから、暗号説の支持者も多い」

「あなたは、暗号説をどうお考えに?」

「単なる好き嫌いで言えば、私は暗号説が好きだ。探偵小説が好きなのと同じ感覚だが」

 正造は意味ありげに笑った。「それとは別に、私も違う暗号を思いついたのだ。いろはとアルファベットとトランプの組み合わせでね」

「……三つを組み合わせるのですか?」

「そうだ」

 正造はうなずき、スプーンを握り直してポリッジの残りに取りかかった。少し冷めていたが、そのぶん食べやすいので、あっという間に平らげてしまった。

「食欲も戻ったようですね」

 各務は困惑したような表情だ。

「とりあえず、仕事以外で、やることを見つけたのでね」

 正造はレモネードで喉を潤しながら、笑ってみせた。「生きている人間にとっての利点を一つだけ挙げるなら、いつ自殺するのか、決行日を自分で決められる点だな」

「……なるほど。つまり、決行日は『今』ではない、と?」

「とりあえず、まだ、やり残したことがあるのに気がついた」

 正造はそれだけ答えてから、レモネードを飲み干した。清々しいレモンの香りも心地よかった。

 その後は暗号には触れず、各務とトランプでゲームをして昼まで過ごした。ジン・ラミーや神経衰弱などの単純なゲームだ。勝敗は五分五分といったところだろうか。

 昼前に「飲んだくれの町医者」が、寝起きのまま白衣を羽織ったようないでたちでやってきた。腫れぼったい瞼に酒臭い息の四十男だったが、診察の手際は良く、経験に裏打ちされた頼もしさも感じられた。

「多少は回復しつつあるようですな」

 医者は聴診器を耳から外して首にかけると、ぶっきらぼうにそう言った。「仕事を逃げ場にするのを止めれば、あっという間に回復しますよ」

「……逃げ場は他に探すとします」

 正造は大人しく同意することにした。医者がどこまで各務から事情を聞いていたのかは知らないが、医者の指摘は図星だったのだ。「他の   過労にならないような場所を。そう、趣味などにしますか」

「趣味ですか……」

 腫れぼったい瞼の下の眼は疑わしげだった。「まあ優雅なご趣味なら、さほど問題ないでしょうが、夢中になって根を詰めたら、過労と同じことになります。何事もほどほどに」

「……肝に銘じます」

 正造は神妙にうなずいたが、医者の眼はこれっぽっちも信じてはいなさそうだった。医者の不養生を地で行っているような医者だから、人間には理性で制御できぬ心の闇もあるとわかっているのだろう。

 医者の許可が出たので、正造は各務の運転するT型フォードで駒込の自宅に戻った。各務の部屋にはベッドが一台しかなく   各務は昨夜、寝椅子で眠ったそうだが   かなりの迷惑をかけたのは間違いなかった。

 自宅に戻った正造が、女中頭の千代の監視がなくとも、二日ほどベッドで安静に過ごしたのは、そんな迷惑をかけたことへの罪悪感ゆえだったかもしれない。ともあれ、三日後の土曜日にはベッドから出て、「散歩」と称して弥生町にある輸入食料品店まで出かけた。万が一のためにと、千代に命じられた車夫が俥を引いて付き添ってきたが、帰宅するまで正造は自分の脚で歩いた。

 輸入食料品店で、正造は燕麦の大箱を購入し、俥の座席に乗せて持ち帰った。それから各務への手紙を書き、燕麦の大箱に同梱して、各務に送った。

 その手紙は、こんな内容だった。





    各務賢治 殿



     HntaNCv z cuS d anx.

     3 Cms 30 dh HXZ 9 T,

     gxODxIO Ekzxh ToxTDCh naNs L Es.





     大正八年三月三日

              草薙正造 拝





     7





 三月二十六日   新聞の社会面に、訃報が掲載された。

 東京駅   設計時は「中央停車場」という名称だった駅舎の設計に携わった建築家の一人、辰たつ 野の 金きん 吾ご がその前日の二十五日、西班牙感冒で亡くなったのだ。

「万世橋停車場の駅舎を設計したのも、辰野金吾でしたね」

 東京駅の丸の内   南側にある乗車口の改札で、感慨深げに各務がそう言ったのは、三月三十日、日曜日のことだった。三月中旬から日を追う毎に暖かくなっていたのだが、その日は外套が不要なほど暖かかった。東京市では桜が満開となり、市街地に薄紅色の華やぎを添えていた。上野の森を始めとする桜の名所には花見客が押し寄せていることだろう。

 東京駅も、中央線の観桜列車に乗ろうとする客たちが賑やかだった。小金井桜のある北多摩郡は東京市よりも寒く、桜の開花が三日遅れると言われていたが、昨日で九分咲き、今日は満開となることだろう。

「先月までは、万世橋停車場が中央線の終端駅ターミナル だったが、今は東京駅が終端駅だ」

 万世橋停車場も新橋停車場と同じ運命を辿るのか   正造もそんな感慨に浸りそうだった。

「でも、まだ万世橋のほうは貨物専用になる計画はなさそうですよ」

 各務が軽く肩を竦め、周辺を行き交う人々を見やった。俥や自動車が次々に到着しては人を降ろしている。「今年も昨年同様に、万世橋から乗るお客さんもいるのではないでしょうか」

「東京駅が始発だと知らない客もいるかもしれないな」

 正造はうなずき、紙入れから切符を一枚取り出して、各務に差し出した。「君の切符だ。招待したのは私だから、代金は不要だ」

「お招きいただき、ありがとうございます。それと大量の燕麦も。おかげで、好きなだけポリッジを食べられます」

 各務が丁重に頭を下げてから切符を受け取った。「暗号の招待状は初めてですが。僕が解けると予想してらしたんですか?」

「当然だろう。君の部屋で解き方の半分を説明したようなものだ」

「それは……たしかに、いろはとアルファベットとトランプの組み合わせだと教えていただきましたが」

 各務が、コートのポケットから封筒を取り出した。純白の洋封筒で、中には薄いタイプライター用の便箋が一枚と、トランプのカードが四枚   ハートのエース、クラブのジャック、ダイヤのクイーン、スペードのキングの絵札が一枚ずつ入っている。

 便箋には、次の文字がタイプされているはずだ。



  HntaNCv z cuS d anx.

  3 Cms 30 dh HXZ 9 T,

  gxODxIO Ekzxh ToxTDCh naNs L Es.



 英文ではない。ローマ字でもない。文末には正造が万年筆で日付と署名サイン を日本語で認したた めたから、それだけは普通に読めるようになっている。つまりは暗号だ。

「私が暗号を思いつくヒントをくれたのは君だよ。正確には君のお母上だが」

 正造がさりげなく言うと、各務がうなずいた。

「アルファベットの小文字と大文字を別の文字だと考えれば、二十六文字の倍の五十二文字になって、いろは四十七文字   『ん』を入れて、ひらがなの四十八文字より多い、という話ですね」

「そうだ」

「そして、五十二マイナス四十八、イコール、四。差は四文字」

 各務は指を動かして、空中に計算式を書いてみせた。「トランプの絵札は各スート四枚ずつです。しかも、絵札は数字ではなく、アルファベットで表示されている。大文字のA、J、Q、K。この四文字を除外すれば、アルファベットは四十八文字となって、ひらがなの文字数と等しくなります」

「なるほど。それから?」

「そこで、こんな変換表を作ってみました」

 各務が洋封筒からもう一枚の紙片を取り出した。四百字詰めの原稿用紙を使って、変換表が記されている。



  いろはにほへとちりぬるをわかよたれそつね

  abcdefghijklmnopqrst



  ならむうゐのおくやまけふこえてあさきゆめ

  uvwxyzBCDEFGHILMNOPR



  みしゑひもせすん

  STUVWXYZ



「達筆だな」

 正造は変換表の正しさには言及せず、文字の美しさに感心してみせた。ひらがなもアルファベットも教科書の手本にできそうなほどだ。

「お褒めいただき、ありがとうございます」

 各務が慇懃に礼を言ってから、説明を続けた。「小文字と大文字のどちらを先にするか迷いましたが、とりあえず小文字を先にして変換表を作ってみました。まず暗号文の中で数字が入っている『3 Cms 30 dh HXZ 9 T』の部分に注目し、この変換表に従って、いろはに変換すると『三くわつ三十にち こせん九し』になります。つまり『三月三十日午前九時』です。同音異義語や濁点は勘で補いました」

「数字に着目したのか。良い判断だ」

「ありがとうございます。これで、小文字が先の変換表が正しいと判断できたので、残りも変換しました。カンマとピリオドは句読点に」

 各務が封筒からまた一枚、原稿用紙を取り出し、正造に手渡した。達筆の文字が並んでいる。



  こかねいさくら の はなみ に いかう。

  三くわつ三十にち こせん九し、

  とうきやうえき まるのうち

  しようしやくち かいさつ て まつ。



  小金井桜の花見に行こう。

  三月三十日午前九時、

  東京駅丸の内乗車口改札で待つ。



「正解だ。見事だな」

「短い用件だけの文章ですし、単語毎に区切ってくださったので、解きやすかったですよ。なにより楽しかったです。解けるまでは、わくわくしましたし、解けて、花見のお誘いだとわかったときは、感激しました」

「喜んでもらえて嬉しいよ」

 正造は笑いながら紙片を各務に返し、行列ができている出札口を横目に、駅員に切符を見せてパンチを入れてもらってから、八角形の巨大な大広間を進んだ。ふだんなら一等待合室で出発までの待ち時間を過ごすのだが、あいにく観桜電車に一等席はない。二等待合室をのぞいてみたが、空いた座席がないどころか、壁に寄りかかる場所さえないほど混雑している。

「出発まで十数分ですから、ホームで待つのも一興ではないでしょうか」

 各務が懐中時計で確認しながら言った。

「それもそうだな。今日は暖かいし、花見では玉川上水の川風に吹かれるのだから」

 正造も同意して、プラットホームへ向かった。観桜特別列車は三月一日に乗り入れた中央線とは別の第四ホームらしい。高架線なので階段を昇らなければホームに辿りつけないが、いざホームに出ると、壮観なほど見晴らしが良かった。

 長距離列車の大半がいまだ蒸気機関車なせいか、あちこちに煤煙の臭いが染みついているが、ホームに停まっている列車は煙を吐かない電車で、四両編成だった。汽車の特別列車なら展望車が連結されているものだが、電車にはそんなものはないらしい。

「……草薙……さん? 各務さんも」

 背後から声を掛けられて振り向くと、階段を走って昇ったらしく、息切れしたように胸を押さえた青年が下駄を鳴らしながら駆け寄ってきた。着古したインバネスと眼鏡を見るまでもなく、すぐに瀬ノ尾だとわかった。

「これはまた奇遇ですね」

 各務も驚いたように振り返っている。「君もこの観桜列車に?」

「はい。もちろん」

 荒い息を必死に押さえながら瀬ノ尾がうなずいた。「僕が参加している演劇同好会の連中と花見に。チェーホフの『桜の園』を研究するには、上野のソメイヨシノよりも、武蔵野台地に広がる小金井桜のほうが野趣があっていいのではないかという話になりまして」

 そんな説明の間に、丸めた茣ご 蓙ざ や一升瓶を抱えた学生の一群が階段を昇ってきた。洋装だったり、瀬ノ尾と同じような書生風だったりと、身なりはばらばらだったが、気心の知れた仲間のように見えた。

「今度はチェーホフか。研究熱心だな」

「はあ……まあ、早い話が花見で宴会をしたいがための、こじつけなんですが」

 照れくさそうに頭を掻いた瀬ノ尾は、「じゃあ、僕たちは三等席なので」と仲間たちの中に駆け戻っていった。

「僕たちは二等席ですが……四号車のようですね」

 各務が切符を見ながら最後尾の車輌に歩きだした。「そういえば、僕たちの宴会の準備は?」

「玉川上水の近辺にある農家が何軒も臨時の花見茶屋になってるはずだ。そこで寛げばいい」

「以前にもいらっしゃったことが?」

「昨年の春に、取引先の招待でね。先方は馬車を仕立てると言ってくれたのだが、観桜列車がどんなものか、一度乗ってみたくてね。楽しかったよ」

 正造はそれだけ説明した。今年の春は桜子と一緒に行く約束だった   と口に出すのは辛かったので、咄嗟に話題を変えた。「そういえば、思い出したのだが」

「何を?」

「私が過労で倒れる前に、君にした質問だよ。『双子の兄弟はいるのか?』」

「……なぜ双子だと?」

「君によく似た男を桜木町停車場で見かけたからだ。そのときは君だと思ったのだが、その後、すぐに横浜停車場に行ったら、君に声をかけられた。俥より自動車のほうが速度が速いから追いつくことは可能だが……服装が違ったのでね。コートの色は同じ黒でも、ズボンの色が違った。スーツであれば、コートの下に着ていた上着も違うだろう」

「桜木町の停車場でご覧になったんですか」

 各務は驚きもしなかった。微笑をたたえた表情は予想していたかのようだ。「かつてはいました。今はいません」

「……どういう意味だ?」

 まるで死んだという意味にも取れる表現に、正造が首を傾げると、

「ご自由に解釈なさってください」

 各務は肩を竦めただけで四号車に乗り込んでいる。正造も仕方なく後を追った。

 電車なので、二等車も三等車も両脇に長い座席が連なっている形なのは同じだ。二等と三等の違いは、背もたれが布張りのクッションか、硬い板張りか、程度の差でしかない。長距離列車のような進行方向に向いて座れる席もなければ、指定席もない。それでも三等車はすでに座れずに立っている人たちがいるのに較べれば、まだ余裕がある。

「玉川上水は線路の北側になるから、進行方向に向かって右側のほうが良く見えるはずだ」

 小声で各務に説明して並んで座ってから、正造は話題を変えた。「君に『双子の兄弟はいるのか』と尋ねる前に、幽霊の話をしていたのを憶えているか?」

「……停車場に出現する幽霊の目的についての推論でしたね。『なぜ停車場に出現するのか』   答えはまだ聞いてませんが」

「私の推論はこうだ。『音信不通の誰かと連絡を取るため』」

 正造は向かい側の窓に視線を向けたまま続けた。「どこに住んでいるのかも定かでないから、電話はもちろん手紙や電報といった連絡手段も使えない。だが、幽霊の噂が立てば、いつかその誰かの耳に入るかもしれない   そんな一か八かの賭けで、幽霊が出現するとなれば、噂になりやすい場所を選ぶだろう。すなわち夜間でも目撃者になりそうな人間がいそうな公共の場所   そんな条件に、貨物専用になってしまった汐留停車場はぴったりだ。旅客列車の利用客がいないから、夜間は荷運び人夫と浮浪者が数名だけになる」

「……面白い目的ですね」

 感想を口にする各務の声は冷静だったが、言葉を選んでいるかのような慎重さがあった。「でも、幽霊が連絡を取りたい相手が運良く噂を耳にしたとしても、どこにでもある幽霊の噂話だと聞き流してしまうのではないでしょうか?」

「いや、幽霊は具体的なキーワードを残している。わざわざ英語で『僕は幽霊だ』と名乗り、『横浜に双子の兄弟がいる』と   心当たりのある者が噂を聞けば、幽霊が誰なのかわかるのではないかね。ただし   その双子云々について、私は君から聞いただけで 、停車場の軒下にいた浮浪者から聞いた噂話にはなかったが」

「僕が嘘をついたとでも?」

「嘘とは言っていない。ただ、英語がわからない荷運び人夫が辛うじて憶えた『僕は幽霊だ』よりも長いセンテンスの英語になる。たまたま英語がわかる者が停車場に一人でいるときに、幽霊が出現したといった偶然がなければ、噂にはならないだろう」

 そこまで説明したとき、ホームに発車ベルが鳴り響いた。一号車の運転席に向かって旗を振る駅員の姿が見える。階段を駆け上ってきた二人の乗客が乗り込むと、車掌がドアを閉め、電車は大きく一揺れしてから、走り出した。

「しゅっぱーつ!」

 そんな大声と歓声が三等車輌のほうから聞こえてくる。早くも花見気分で盛り上がっているらしい。

「あなたの言うことはもっともですが」

 横から各務の声が聞こえた。「それでは、幽霊が『具体的なキーワードを残していない』ことになってしまいますが」

「現時点ではね。だが、今後、君がその噂を広めれば、『具体的なキーワードを残した』ことになる。噂に尾鰭はつきものだ。噂が伝わる過程で、元々なのか後付けの尾鰭なのか曖昧になる。君はそのつもりで私に話したのだろう」

 各務は黙って聞いている。規則的なレール音と振動を聞きながら、正造は話を続けた。「幽霊が出現したのは汐留停車場   かつて新橋停車場だった駅舎だ。そして、あの駅舎と双子の駅舎が横浜にある。同じ設計図で建築されたから双子と言えるだろう。現在は桜木町停車場と名前を変えられた経緯もよく似ている。乗客の急増と、線路の高架化や電化に対応できなかったからだが。そして、もう一つ、設計者は亜米利加人のリチャード・ブリジェンスで、建設工事をしたのは日本人の技師や大工たちだ。以上の要素を人間に例えれば、亜米利加人と日本人の間に生まれた双子の兄弟   ……。もしもその兄弟が、子供の頃   十年以上前の、東京駅ができる前に、新橋と横浜の停車場の話を聞いていたら……まるで自分たちのようだと感じたかもしれない。そして   それが兄弟の共通の思い出になる」

 正造はそこで口をつぐんだ。各務の返事を待とうとしたのだ。しばし、レール音しか聞こえなかったが、

「……お話しましたよね。僕の父が西洋建築を学びに亜米利加に留学した、と」

 各務の声が横から聞こえた。「銀座の煉瓦街に触発され、西洋建築を勉強するために   新橋と横浜停車場を設計したブリジェンスは、父にとって心の師でした。そのせいか、僕と弟 が幼い頃、よく横浜停車場に連れていっては『双子の停車場が新橋にあるんだよ』と話してくれました」

「……横浜に住んでいたのか」

「八歳までです。外国人居留地に近いほうが母も暮らしやすいですし、ブリジェンスが建築事務所を構えたのも横浜   西洋建築の仕事をするのにも最適だったんでしょう。けれども、母が亡くなった後は、東京に戻りました。父の生家は深ふか 川がわ 区く 木き 場ば の材木問屋だったんですよ。父が建築士として独立したので、家業は伯母   父の姉夫婦が継ぎましたが。そして、父が男手一人で子供二人を育てるのは難しかったのと、姉夫婦が子供に恵まれなかったこともあって、弟は伯母夫婦の養子になりました」

「弟さんの名前は?」

「穣じよう 治じ    豊穣の『穣』です」

「英語のジョージは、元はギリシア語の『大地で働く人』の意味だったな。君の名前と同じで、英語でも日本語でも近いイメージだ」

「そうらしいですね。僕か弟か、どちらを養子にするかの決め手になったのも、その名前です。材木問屋の跡継ぎにも相応しい名前だと。ただし、見た目が……この顔ですから。江戸っ子の気風が残る下町では、馴染みにくかったかもしれません」

「君とお父上も木場に住んでいたんだろう?」

「いえ、隅田川を挟んだこちら側、京橋区です。石川島造船所の近所でした。父はあの造船所で技師として働くことにしたので」

「では汐留停車場   かつての新橋停車場の近くか」

「ええ。東京駅ができるまでは、僕には都合のいい環境でした。築地にも外国人居留地がありましたし、この顔で歩いていても振り返られることもなく……でも、距離的には近くても、隅田川を挟んだ西と東では、かなり環境が変わります。それでも、伯母夫婦は優しい方たちでしたし、弟も我慢強い性格でしたから、表だっては問題なく歳月が過ぎたのですが……三年前の冬に、火事で伯母夫婦の屋敷が全焼しまして   伯母夫婦と弟は亡くなりました」

「亡くなった?」

「はい。ただし、遺体の確認もできない状態でした。空気が乾燥する真冬で空っ風に炎が煽られて、商品の材木が薪も同然となって燃えてしまっただけでなく、近隣の材木商や家屋まで類焼してしまったほどの火勢だったそうです。出火の原因も不明、伯母の家に住み込んでいた使用人も何人か亡くなりまして   葬儀は、叔母   父の妹夫妻が行いました。僕の父もすでに亡くなっていたので」

「その叔母さん夫妻のお住まいは?」

「牛うし 込ごめ 区く の市ヶ谷です。叔母のご主人は材木とはまったく関係のない、中学校の教師です。兄が留学したこともあって、叔母は進歩的な女性といいますか、『十年遅れて生まれていたら、真っ先に洋装のモダンガールになったのに』が口癖で   僕の母とも仲が良くて、実の姉のように敬愛していました」

 懐かしそうに語ってから、各務がひとつ息をついた。「ともあれ、その火災の後は、各務材木問屋は廃業し、焼け跡の敷地も売却したので、父の生家は消滅したわけですが   なぜかその後も、僕に瓜二つな人を見かけた、と   正確には『僕がいるはずのない場所で僕を見かけた』という人が、何人かいまして」

「ドッペルゲンガーか」

 正造はエドガー・アラン・ポーの『ウィリアム・ウィルソン』を思い出した。「己おのれ と瓜二つの分身、殺そうとすると己をも殺すことになる影法師……。現実的に考えれば、他人の空似   でなければ……君の双子の弟さんが実は死んでいなかった?」

「あるいは、弟の幽霊」

 各務がつぶやいた。冗談でも言っているような口ぶりだった。「どれが正解なのか、僕にもわかりません」





    終章 エピローグ





 いつしか電車は高架から地上の線路へと降り、西へ走り続けた。やがて北を流れる玉川上水と併走するように走る窓から、淡い薄紅色の春霞がかかったような景色が見えてきた。

「乗降できるのは、次の境さかい 停車場か、終点の国こく 分ぶん 寺じ 停車場かのどちらかになります」

 そう言いながら検札にやってきた車掌が、手際よく客の切符にパンチを入れて前の車輌へと移っていった。

「どちらの停車場にしますか?」

 背後の窓から桜並木をながめていた各務が尋ねた。「新宿から西は行く機会がなかったので、未知の土地なんですよ」

「では、国分寺で降りて、上水沿いに歩きながら境まで戻るのは? のんびり散策しても二時間はかからない。途中の茶屋で一休みする時間もある」

「桜のトンネルを歩くわけですか。名案です」

 各務がうなずき、また車窓へと視線を戻した。他の乗客たちも、斜めに座席に腰掛けたり、首や視線だけ窓へ向けたりと、景色に夢中のようだ。南向き   玉川上水と逆方向の座席の客たちも、こちら側の車窓を見ようと首を伸ばしたり、立ち上がったりしている者も多い。隣の三等席の車輌では、通路に立っている客たちのほぼ全員の頭がこちら側の窓を向いている。南側の窓から見えるのは、武蔵野の原生林か、田畑だけだ。

 だからこそ、ほぼ一直線に長い線路を敷けたのか   街がすでに出来上がっている東京市内ではまず無理だと正造が考えていると、

「亜米利加の大陸横断鉄道みたいですね」

 各務の声が聞こえた。「東海岸から西海岸まで大陸を横断する列車があると、父から地図や写真を見せてもらったことがあります。悠久の砂漠を突っ切るように蒸気機関車が走っていくんですよ。窓から見えるのは一面茶色の砂の海   サボテンさえ見えないんですよ。線路を目印に走る馬車の影がちらほらあるだけですね」

「それは壮観だろうな」

 正造は相槌を打ちつつも、ふと、この青年の眼には満開の桜ではなく、砂色の砂漠が映っているのかもしれないと考えた。一度も行ったことのない母の故郷

「次は境停車場。間もなく、境停車場に到着します」

 検札を終えて戻ってきた車掌の声が聞こえた。何人かは降りるらしく、手荷物の確認をしている。やがて境停車場に到着した。小さな木造の駅舎だが、多摩川で採掘した砂利を運ぶ多摩鉄道も乗り入れているため、荷運び人や荷馬車が慌ただしく行き交っている。

 ホームに到着した電車は、花見客を降ろすと、すぐにドアを閉めた車掌が笛を鳴らすのを合図に走り出した。窓から後方を振り返ると、雑木林や耕し終えた田畑の間を線路と電気を伝える架線が果てしなく延びているだけだ。前方も同じく

「あのあたりだ」

 十五分ほど走ったところで、正造は向かい側の窓を指さした。「あのあたりに、別荘を建てようと考えている」

「別荘を……あちら側   この線路の南側にですか? 北の玉川上水のほうではなく?」

 各務は怪訝そうだ。「僕には雑木林しか見えませんが……」

「今は未開の地だが、貴族院議員の知人から聞いた話では、東京市の公園課で公園墓地を造成する計画がある。北多摩郡多た 磨ま 村   あのあたり一帯が第一候補地だ」

「公園墓地……?」

「墓地であると同時に、市民の憩いの場所でもある公園だ。市内の人口が急増したせいで墓地が不足しているらしい。寺社を増やすわけにもいかないし、市営だから宗教や宗派に関係なく埋葬できる墓地が必要なのだそうだ」

「キリスト教徒も仏教も同じ墓地に?」

「そうなるはずだ。カトリックもプロテスタントも浄土宗も浄土真宗も無神論者も」

「それは画期的ですね」

 各務は感心したようだ。「それに、このあたりなら停車場を追加するだけで墓参に来られますね。今はまだ雑木林しかなくても、十年先、二十年先には発展しているでしょう」

「そうだ。だから私も先行投資で別荘を建てようと考えている。西洋建築で   君が設計する気はないかね?」

「……僕が?」

 各務が驚いたように親指で自分の胸を突いた。日本人なら人差し指で自分の鼻を差すところだが、母親の習慣か。それとも英国人の家庭で執事をした経験からか。「でも学位はあっても、趣味に毛が生えた程度で……」

「趣味でいいんだ。君の趣味で好きなように設計してくれ。君が住みたいような西洋建築の家を。壁や床の建材も使いたいものを指定してくれ。輸入が必要なら私の商社でなんとかする。広さも、これから土地を購入するのだから、無制限だ。といっても、お城のような広大な邸宅では持て余してしまうから、ある程度の想定はしておくか。そうだな   独身の男が仕事や都市の喧噪から離れて、のんびり休暇を過ごす郊外の別荘、といったところかな。客や使用人も一人か二人は泊まれるような予備の部屋は必要だが、部屋数が多すぎては困る。掃除だけで丸一日かかってしまうからな」

「……夢のような話ですね」

 動揺を抑えるかのような各務の答えだった。「実際、食指が動かされます。でも、なぜ、僕に? あなたほどの地位も財力もあるかたなら、著名な建築家に設計を依頼することもできるでしょうに」

「どんな著名人も最初は無名の新人だよ。強いて理由を言えば、君の部屋を見て趣味の良さも感じられたからかな。病院の家具の再利用の仕方も気が利いていた。それと   不思議な幽ゆう 霊れい 譚たん で知り合ったからかな。運命のようなものを感じる」

「……運命ですか」

 各務が苦笑した。「本当に僕の好きなように設計してもいいんですね?」

「契約書を交わしてもいい」

 正造は即答した。「ご先祖の時代だったら、『武士に二言はない』と答えるところだが、今は商人だから、契約書が誓約のようなものだ。西洋だったら、聖書に誓うのだろうが   では、私の信念に賭けて誓う。君の好きなように設計したまえ」

「お引き受けします」

 各務が力強くうなずく。それを待っていたかのように車掌の声が響いた。

「間もなく、国分寺停車場   終点に到着いたします。お降りの際はお忘れ物がないようご注意ください」

 前方に国分寺停車場の駅舎が見えてきた。境停車場とさほど変わらないが、埼玉の本ほん 川かわ 越ごえ とを結ぶ川越鉄道や、下しも 河原がわら へ砂利を運ぶ東京砂利鉄道の路線も接続されているので、活気もあるし、停車場周辺にも商店が何軒か立ち並んでいる。俥屋もあるようだ。

 電車がホームに滑り込み、停車すると、乗客たちが我先に降り立った。北の玉川上水へ向かう小道も、人や俥、馬車が連なっている。

「いざ行かん、桜の園へ!」

 よく通る声を挙げているのは、どうやら瀬ノ尾たちの演劇集団らしい。

「   『今まで田舎といえば、地主と百姓しかいませんでしたが、今日では別荘人種というものが現れています。どんな町でも、どんなちっぽけな町でも、ぐるりと別荘が建ち並んでいます』」

 一人が滔々と『桜の園』の台詞を暗唱し、

「ロバーヒンはもう少し苦労人らしい深みがあるべきだな。君のは、こすっからいだけの商人みたいだ」

 もう一人があれこれ難癖をつけている。さらに、



  カチューシャかわいや わかれのつらさ

  せめて淡雪 とけぬ間と

  神に願いを かけましょうか



 なぜか関係のない『カチューシャの唄』を大声で合唱しながら行進しだした。松井須磨子への追悼会も兼ねているのだろうか。他の通行人たちも、最初は当惑した様子だったが歌詞を知っている者もいるらしく、小声で歌いだしている。

 そんな風変わりな行列を背後からながめつつ、

「別荘の件だが……一つだけ希望を言わせてもらえば」

 正造は横を歩く各務に声を掛けた。「庭に桜の木を植えてもらいたい。主寝室からもよく見える位置に」

「桜……」

 各務は意味がわかったようだ。「品種は何がいいでしょう? 小金井桜は山桜ですが、上野公園のようなソメイヨシノ? 品種によって咲く時期か微妙にずれますから、何種類か混ぜれば、一ヶ月以上、花見ができますよ」

「それもいいな」

(   約束よ?)

 風に舞い、降り散り、降り敷く薄紅色の花びらから桜子の声が聞こえたような気がした。

(ああ、約束するよ。いつか、君を連れてこよう。菩提寺にある遺骨を分骨して   この地に連れてこよう。そうすれば、幽霊の姿でも君に逢えるかもしれない)

 私は狂っているのかもしれない。

 ふとそう思った。なぜこんな田舎に別荘を建てるのか、真の理由を説明したら、狂人と呼ばれるかもしれない。

 しかし、約束を果たせる目処がついたからか、正造の心は穏やかだった。

(了)





  <付録>  大正時代の用語デタラメ解説




欧州大戦  第一次世界大戦の別名



東京市

 現在の東京二十三区。当時は東京府東京市でした。

本郷区  現在の文京区

深川区  現在の江東区

京橋区  現在の中央区

麹町区  現在の千代田区

牛込区  現在の新宿区



カチューシャの唄

 大正三年に発表された劇団芸術座の第三回目公演『復活』の劇中歌。作詞は島村抱月と相馬御風の共作、作曲は中山晋平。

 松井須磨子が歌唱し、『復活唱歌』の題名でレコードも発売されました。

蔵前

 東京高等工業学校の異名。のちの東京工業大学。作中で言及している映画雑誌は「キネマ旬報」のことです。

東京高商  東京高等商業学校の略。一橋大学の前身

青鞜

 明治四十四年から大正五年まで発行された女性による女性だけの文芸誌(月刊誌)

インバネス

 インバネスコートの略。袖のあるケープ付きの外套。

 シャーロック・ホームズが着ていたコートと同じ形です。

電車道

 市電(路面電車)の走っている道路。

 市電が走る前は乗合馬車が走る道を「馬車道」と呼んだことからの転用です。

西班牙感冒

 スペイン風邪のこと。現在では病原体がA型インフルエンザウイルス(H1N1亜型)だと解明されていますが、当時は分析技術が未発達だったため原因不明とされていました。

 感染者は世界で約五億人以上、死者は五千万人から一億人、日本でも三十九万人が死亡。この当時、ワクチンなどの免疫医学療法も、まだ研究途上でした。

カフェー

 現在のカフェとは別。珈琲も出しましたが、酒(ビール)も出し、女給さんが給仕しました。



俥 くるま  人力車のこと

氷 ひ 室 むろ

 冬の間に切り出した天然の氷を保存しておく地下の倉。(冷蔵庫がない時代なので)



蓬 ほう 莱 らい 橋 ばし

 静岡県にある世界最長の木造橋と同じ名前ですが、別物 です。現在、銀座にある蓬莱橋交差点の位置にあった橋。 明治時代に蓬莱社という会社が橋を石造りに建て替え、 蓬莱橋と命名しました。蓬莱社は放漫経営で大正になる 前に倒産しましたが、橋の名前だけは残りました。



赤バイ  現在の白バイ(スピード違反の取り締まり)



半ドン

 半ドンタクの略。週休二日制が定着する以前は、土曜日は午前中だけ仕事をし、午後が休みの企業が多かったのです。その終業の合図を半ドンと呼んでいました。



勧 かん 工 こう 場 ば  百貨店(デパート)の前身のようなもの



境停車場

 現在の中央線武蔵境駅。大正八年七月一日に「武蔵境」 と改称する前は「境」停車場でした。



北多摩郡多磨村

 現在の東京都府中市。造成計画中の公園墓地とは、現在 の多磨霊園のことです。





あとがき




「停てい 車しや 場ば 」という言葉には、懐かしい響きがあります。私が子供の頃には、『夜明けの停車場』という歌謡曲もありましたから、まだ死語にはなっていなかった世代です。

 けれども、いつしか「停車場」という言葉は日常から消え、「駅」と呼ぶのが当たり前になりました。今回、あらためて調べたのですが、国土交通省令の「鉄道に関する技術上の基準を定める省令」第一章第二条に、「停車場」とは「駅、信号場及び操車場をいう」と定義されていました。つまり、駅よりも広範囲なのですね。一方、「駅の古風な呼び方」と記述している辞書もありますので、やはり昭和より昔の時代を彷彿とさせる言葉のようです。

 そんな停車場をキーワードに、大正ロマンに挑戦してみたのが本書となりました。耽美、退廃的、虚無的、刹那的、享楽的   光よりも闇のほうが濃厚な時代、というのが私のイメージではありますが、作者の私は耽美とは縁遠いので(笑)……。また、主人公の草薙子爵は「厄介な連中」シリーズの「月影おぼろ線香花火」に出てくる古い暗号の手紙を書いた人と同一人物ですが、シリーズのキャラは、先祖を含めて一人も登場しませんし、完全に独立した物語として書いたつもりです。

 ともあれ、大正時代の三文作家が書いた三文小説風(新仮名遣いですが)の作品を、お楽しみいただければ幸いです。



二〇一六年十二月        柏枝真郷





ACORN vol.8

停車場幽霊奇譚

  同人誌発行日  2016年12月30日

  Kindle版発行日 2018年1月16日

  著者   柏枝真郷

  発行者  ACORN

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